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【読書記録】 ランチのアッコちゃん

今回は、柚木麻子さんの、"ランチのアッコちゃん" です。

この本への記憶

高校生だったか。本屋さんのダイアナをたまたま読んで気に入って、そこから何作か読んだうちの一つ。ではあるのだが、本屋さんのダイアナの内容ですらあまりちゃんと覚えていない。飽きれる記憶力の無さ。それに、多分同時期に、食べ物が出てくる本にはまったんですよね。小川糸さんとか、瀬尾まいこさんとか、たくさん読んだなあ。覚えてないけど。まあそんな中の一作品、という位置づけ。私の中で。

改めて読んでみて

読み返して、こんな話だっけ?という感じだった。現実にはこんなことないよ、って、物語だなぁ、って、感じはするけど、それでもこういう世界が外に広がっていたら、いいなぁ。味気のない、日々の繰り返しの中に、美味しいご飯や、ホッとできる場所が、あれば。

環境が作るもの。もともと持っているもの。

“時代が作る性格” ってあるのかな、と思う。
この作品に、”高校生が最強だった時代”というのが出てくるけれど、それは私には分からない。その世代ではない。私は、地味な、田舎の、高校生だった。ゆとり世代、でもない。はず。さとり世代と、言われることもある年代だと思う。検索してみると「現実主義」と出てくる。まあ多分、そこに近いのだろうな、とは思う。

大学生の時、友人に連れられて行った占いに言ったことがある。その時に占い師さんに言われ、なるほどなぁと思ったことを思い出した。私の年代の人間が中高生くらいの時、「空気を読む」って言葉が流行した。だからこの年代の人は、必要以上に他人の顔色を見る傾向がある、と。
確かに人の顔色を窺う傾向はある。けれども、違う時代に生まれていたら違ったのか、と言われると、自分の性格のような気もするし、よく分からなくなる。

性格、というものはどうやって決まるのだろう。環境によって徐々に形成されていくものなのか、ある程度の形は生まれた時に決定されていて、環境要因は多少の揺れ動き程度の影響なのか。
私は自分の性格が人生で大きく3回は変わっていると思っている。でも根底にあるものはやっぱり変わらないような気もしている。だから、前にも書いた、パラレルな世界に生きる自分、を想像すると、多少の違いはあれど、どの道をたどってもやっぱり私はこの私にたどり着いたんじゃないかなという風にも思うのです。でも同時に、これまでの全部があったからこそ私は私なのだとも、思ったり。

自分勝手に生きること

顔色を窺う、という風に書いた。この作品を読んでいると、少しくらい自分勝手でも、いいのかもしれないという気になってくる。
気を使って生きているつもりであっても、だれかを怒らせてしまったり、だれかを不快にさせてしまったりすることってどうしてもある。
だから、それなら、自分が良いと思うことをしていた方がいいのではないか。
自分が良いと思うことをして、自分はそれが良いと思ったのだと、胸を張って言える方がいいのではないか。

私には、この物語に出てくる人たちのような、周りの人たちをぐんぐん巻き込んでゆくような勢いや人望はない。
就職活動中、「私の特技は人を巻き込んで何かを成し遂げることです」と自己アピールする人たちを、いつも尊敬の目で見ていた。
「私はそんな風にはなれない。大きな世界の端っこの方で、なくなっても代わりがいくらでもある、そんな部品の一つであれればいい。大きなものを背負うより、この身一つで身軽なままの方がいい」そう思っていた。
そういうのって、努力でどうこう、という問題ではないように思う。自分に適した役割で、自分に適したやり方で、世界と関わってゆくのが一番いいんじゃないか。巻き込む人がいれば、その人を支える人がいて、巻き込まれた先でみんなを盛り上げる人も、巻き込まれた先で勤勉に任務を遂行する人も、いる。
でも、自分に合わないなと思っていた環境で自身も気づかなかった能力を発揮することもあれば、好きで得意なことを仕事にしたのに辞めなければならなくなることだってある。
だから面白いんだとも思う。そういうのを、楽しんでいられる人でありたい。

正直、人の顔色を見て自分の行動に反映させることは、全く悪いことではないと思っている。
でも、その結果自分が楽しめないなと思ったら、少し自分勝手になってみようと思う。

そうはいっても人に迷惑をかけすぎるようなのは、やっぱり苦手だからなあ。自分の機嫌の取り方は、ちゃんと自分で把握していたいね。
おいしいランチでも、自転車での遠出でも、部屋にこもって読書でも、なんでもいいから。

本日はここまでです。
読んでくださった方、ありがとうございます。
湿度が大変に高くてべたべたします。はやく梅雨明けないかなぁ。

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