生きてる間、ずっと「生きづらい」って思ってた話
私はもともと普通の会社でOLやっていましたが、うまく周りに合わせることができなくて、すごく生きづらさを感じていました。
人のアドバイスや忠告を素直に聞き入れることができず、「私はこういう風にする方が良いと思う!」を何度も繰り返して、何度も失敗してきました。
それは結局「あの子は仕事ができない」という評価につながり、周りからの目線が、さらに生きづらく感じていました。
「なんで同じようにできないの?」
「何回もやってる仕事なのに、なんで失敗するの?」
耳タコになるくらい言われました。
「そういうものなんだよ」と言われても、自分の中で「納得」ができないとそれを受け入れることができなくて、似たような失敗を繰り返していました。
私がその現状を打破するために考えたのは、「情報と先回り」でした。
仕事自体をうまくすることができないので、他のところで自分を評価してもらうしかなくて。たとえば「この人はコーヒー飲むときはブラック」だったり、「あの人、請求書作るときよく金額間違えてるから、金額を間違えないテンプレートを作ってあげよう」とか、そういった「情報」をひたすら集めて、やりやすい状況を少しでも作ってあげるように頑張りました。
まあ、結果は、左遷でしたが。
とにかく、OLをしていたころは、生きにくかった。「みんなができること」ができなくて、よりよくしようと無駄な挑戦をして当たり前のように失敗して、周りに迷惑をかけていた。何をしても裏目にでるし、「こういうことだよ」って言われてもモヤモヤして聞き入れることができませんでした。
ある時、友人と話していた時に、生きにくさの原因が少しわかりました。
どうやら、一般社会でうまくやりくりできてる人って、社会の常識だとかやり方だとかいうのを、「そういうもの」って受け入れるのをあまり苦に思わない。何か新しいことに挑戦しようとしたら、失敗しないようにちゃんと段階を踏んでやってる。
私みたいに、そういうものって言われること自体に毎回モヤモヤしたり、考える前に行動するって、してないみたいなのです。
「周りの言うことに逆らわず、流れに乗れる人」会社に入ると、こういうことを求められます。それができない人が、鬱になったりして会社という枠組みを離脱する。だけど、会社で働いたことしか経験のない人は、会社からお給料をもらう以外に生き方が分からない。どんだけしんどくて、つらくても、自分をだましながら、嫌悪感に対して鈍感になりながら、楽しい部分を見つけながら、仕事を続けるしかないのです。
少し前の社会なら、そういった「我慢」は美徳とされてきました。なぜなら、我慢すれば一家を養えるだけの給料がもらえたからです。
自分が我慢すれば、それは家族のためになりました。だけど、今の社会は違います。我慢しても、一つの仕事だけで一家を養うことはできない。我慢しても、生活するのが不安になるくらいのお金しか手に入らない。
よく、「若者はすぐ辞めるから我慢が足りない」って言われます。違います。「我慢すると損する」から辞めるんです。
言い方はちょっとあれですが、私みたいに絵が描けるなどの目に見える「一芸」がない人は、自分のどこに価値があるのかもわからない。起業するなんて怖くてできない。だから、生きにくさを感じても、仕事を辞める選択肢は生まれません。
私は子供のころからずっと、漫画家になりたいと思っていました。だけど、会社を辞めるつもりはなかったです。
「私は周りと違った感性を持っていて、普通の人の感覚が分からない。だから、一般の会社で働くことで、その感性を育てている。私にとって、この仕事は必要なものなのだ」
と、本気で思っていました。
もちろんすべて間違いだったとは思いませんが、むしろ「そういうもの」として周りに合わせることを「モヤモヤする」と感じていた部分を、掘り下げて自分の中で昇華して、漫画にするべきだった。
私は、会社で働いている間、ずっと「そういうもの」を「そういうもの」として受け入れる努力をしていました。そうしないと、働くことができなかったから。周りに合わせるように必死に取り繕っていました。それが仕事だったから。
それが、私にとっては、とても生きにくかったのだと、いまとなっては思います。
いま、会社を辞めて3年近く経って、ようやく当時のことを冷静に振り返ることができるようになってきて、気付くことができたことがたくさんある。
でも、渦中の時は全然気づかなかったし、周りの考えに自分を押し込むことに疑問も抱かなかったなあ。
これからは、起業ブームというか、会社という枠組みにとらわれない稼ぎ方の方法がたくさん生まれてくると思います。どういう生き方をするのが自分に合ってて、楽しく生きていけるのか。見つけていきたいですね。
作業時の紅茶代にさせていただきます。