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わたしが死んだ後は。

 こんなタイトルだからといって、別に死にたい気持ちが亢進しているとかつらい気持ちになっているわけじゃないです。今日はむしろ、元気。

 先日伯父が亡くなり、明日から火葬、葬儀と続きます。この1年は、うちのおじいさんネコ・ピーさんの死に始まり、友人の若い死、いとこの子のさらに若い死、そして今回の伯父の死、と続きました。お別れの多い年だった。

 わたしは夫も子供もいませんので、とりあえず、死ぬときは直接の身内のいない死を迎えます(直接の身内、というのは変な表現ですが、配偶者や子供といったいわゆる「喪主」として一般的な人のいない、という意味です)。最近つらつらと考えていたことですが、お葬式もしたくないしお墓にも入りたくない。年をとって死ぬときには、おそらく弟に後始末をお願いすることになるかと思うのですが、葬儀やら埋葬にはお金はかかるしめんどうくさい。墓掃除だの法事だの、おそらく離れたところで暮らすことになるであろう甥姪に託すのも彼らが大変だろうし、お寺さんや坊さんにあまり義理を感じていないので、戒名だのお布施だのと費用をついやすのもいやなんですよ。いやほんと、戒名いらねえ。

 お葬式は生きている人たちのためにある、とよく聞きますが、わたしが年をとって死ぬ頃には友達もおそらくあんまりたくさん生き残っていないだろうし、繋がりの強い身内も限られるし、お葬式とかより、生きている人たちが仲のよい仲間同士で集まって、わたしを思い起こしながら飲み会でもした方が楽しくないかな?お墓や仏壇の前で手を合わせなくても、手元に写真の1枚や思い出の品の1つでもあれば十分偲べるんじゃないのかな?

 そんなふうに思いましたので、死ぬときは遺言で火葬だけしてもらって、あとは散骨とかなんか適当な後に残らない方法を調べておこう、と思っていました。物理的にものを残すとあとあと処分に困りますので(わたしは離婚してからかなりのミニマリストになりました)、後に残らないのがいいんです。残るのは、形のないものだけでいいです。わたしの名前で出す「死亡のお知らせ」葉書、というアイディアも考えましたが、それは何となく弟に嫌がられそうな気がしましたので案から削除しました。

 そんなことを考えていた矢先、こちらの記事を拝読しました。

ときどき、死の受容のプロセスの中に、贈りものをしたい気持ちや利他の精神が突如発露する患者さんがいます。本当に自分がこの先もうどうにもならないと知った人が、意識がなくなる前日に「私は今こんなだがどうしても人の役に立ちたい」と言って死後のアイバンクへの角膜提供を申し出られたということがありました。角膜提供だけでなく、医学の発展のために何か役に立てることはないかと、お亡くなりになったあとの病理解剖を申し出てくださる方もいます。

 そうか、献体とか臓器提供すればいいんだ。そこに気づいた。利他の精神の発露、というわけではありませんが、後に残したくないといって燃やしてしまっては勿体ないし、火葬と散骨なにがしの手間暇もかかります。有効利用していただけば一石三鳥です。

 臓器提供については、わたしは長いこと薬を飲んでいましたので、なんとなく臓器が汚染されているような気がして、差し上げるに適さないのではと思い、カードなどで意思表示していませんでした。でも今はもう薬も飲んでいないし、ひととおり体から抜けたようにも思うし、ひょっとすると、薬に浸かった体は提供に適さない、というのも単なる感覚の問題だったのかもしれません。そしていずれにせよ、献体であれば何の関係もない話だ。

 そうか、そうしよう。わたしは死んだら、献体なり臓器提供なり使ってもらうことにしよう(親が死んだ後に死んだら、の場合ですが。なんとなく、親が生きていたら、葬式と埋葬はどうしてもしたいだろうなとも思います。そこを振り切って断行するにも、わたしは死んだ後だしな)。

 わたしはこのように思いましたが、これは別に、みんなそうするべきだ!という話ではありません。お葬式やお墓、故人を身内で送りたい思い、あたたかい気持ちやかなしみ、涙、悼み、そういったものは尊いし大事にしたいと思います。この1年で出会った死と送りは、みんなそういうものだった。ただわたし個人の死んだ体に関しては、あとに残さず、さっぱりと、利用できるものは利用して片付けて、わたし一代で完了してしまいたいなあと、そういうふうに思います。

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