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わたしが怖かったもの。

 自分のため、というより仕事で考えたいことがあって、愛着に関する本や嗜癖についての本を数冊読むことがあった。ところが結局(いや別に「仕事のため」と「自分のため」は相反するものではないのだが)、愛着や嗜癖について学ぶことは(トラウマに関する勉強もそうなのだけれど)自分の困難を解いていく大きな一歩になったのだった。

 目が覚めたように自分の抱える困難の姿に気づいたのは、この本のこのくだりを読んだ時。

「ルーイスらは愛を同時的な相互調節として定義している。愛が、ボウルビィと愛着理論が強迫的世話として考えるものや、12ステップが共依存と呼んでいるものと混同されないように、健全な相互関係と、愛着を維持しようとして慢性的に自己犠牲を繰り返すこととを区別することが必要である」
「強迫的な世話人は、実は自分自身が気づくことかできず、あるいは気づきたくないと思っている悲しみや援助を求める気持ちすべてが、自分にではなく、援助を受ける側にあると見なしている。つまり、援助を受けている人は、ある意味で援助を与えている者の身代わりとしてそこに立っているとも言えるのである(Bowlby, 1980, p.156-157)。」
フィリップ. J. フローレス(2019)『愛着障害としてのアディクション』日本評論社, p.86, 92.

 わたしのこれまで。親しい他者との関係において、どうして能力を搾取されてしまうのか、どうして美味しく便利に利用されてしまうのか、そんな人たちに限って、どうして「わたし自身」は否定しダメ出しし取るに足らないもののように扱うのに役立つ「能力」だけは平気で使い際限なく要求してくるのか、そしてどうして自らそういう関係性の中に突っ込んでいって役立ちやがて嫌気がさして離れることを繰り返してしまうのか。そんなことが起こっていることはここ1、2年で自覚したけれど、なぜそうしてしまうのか掴み切れないままでいた。それが、やっと分かったような気がする。

 心の底に傷があって、ずっとじくじく痛んでいたのは、自分の能力に関わることだった。わたしが優秀であることで誰かが傷つくことや、それを大人がわたしの罪として弾劾してくることや、なのに都合よく矛盾した要求を発してくることや……そういったことが、わたしがそのままあることを難しくした。

 だからわたしは「能力の出どころ」が自分であることを、隠してカモフラージュしたかった。能力を全開にせずいつも抑えめにしておくこともしんどかったけど、能力を出せたとしてもその源が自分であるとばれることも怖かった。わたしは「アナと雪の女王」のエルサが歌う「Let it Go」のシーンを見ていると、自分とシンクロしてきて泣けてくる(日本語詞だと意味合いが微妙に変わってしまうのだが、英語詞にアニメーションのエルサの動きを重ねてみると、その気持ちがもの凄く伝わってくる)。

 わたしは、「能力が自分に紐づいていること」「自分の名のもとに能力を発揮すること」が怖かった。わたしはずっと、自分が優秀でも能力を思う存分発揮しても許される、「依り代」を必要としていたんだと思う。元夫とか元彼氏とか、彼らがわたしを必要としていたとかわたしが有能でも受け入れてくれたとかそういうことじゃなくて、わたしが「依り代」として利用できる誰かを常に求めていた。彼らだったから力を貸してあげた訳じゃなくて、多分「依り代」になりそうなら誰でもよかったんだろう。

 元夫が失踪して、それから今に至るまで、わたしにはどうしても拭い切れない罪悪感があった。どうしても酷いことをやってしまったような、フェアでないことをやってしまったような、消化しきれない感情があった。その感情も、やっと消化できたような気がする。

 元夫が失踪したことは、あれは彼の物語として語ると「嫁に暴力を振るった挙句逃げられてしまい、ついには事業も失敗して借金も返せなくなり、すべてを置いて逃げた」という話なのだが、「自分由来の能力が怖い」わたしの物語として語り直すと、「依り代を求めて手に入れたが、次第に飽きて嫌気が差し、ポイ捨てして去った後に事件が起こった」という話だった。彼の物語の責任は彼が取るべきなのだがわたしの物語の責任はわたしが取るべきであって、わたしがずっと消化できなかったことは「彼が失踪したこと」じゃなくて「わたしが中途半端に捨てたこと」であり、それまでも繰り返してきた手に入れては捨てるという営みに(書いていないエピソードもいろいろあって、実は20代前半くらいからずっとそういうことをしてきた。わたしはいろいろなことをすぐ手放してしまうのだ)彼を巻き込んでしまったことだったんだなあ、と思う。

(このわたしと元夫の並立する物語は、まるで日本の昔話の「鶴の恩返し」や「もの食わぬ女房」のそれぞれのサイドから見た物語のようだなあ、と思う。自分のことを、平気で前の家から次の家に移っていく座敷童みたいだ、と思ったこともあった。)

 ここまで来て、わたしは、怖がるのをやめようと思う。怖がらずに、自分の能力は自分に紐づくものとして、自分に属するものとして、自分から流れ出るものとして、使い、発揮するようにしようと思う。すぐにはできないけど、そうするように心がけていこうと思う。

 子供の頃から、そして大人になっても、「悪い子」になることは凄く怖いことだった。でも、他人を依り代として使うことは、自分のことも、人のことも、傷つける行為だったと思う。それは一種の取り引きだった。能力の生む利益を対価として差し出すことで、力に伴う不都合や覚悟を肩代わりしてもらうような。「自分の名のもとに」「自分のものとして」能力を使うことは、その力に対する権利と責任を、自分できちんと引き受けることなんだと思う。

 少しずつかもしれないけど、多分確実に、わたしはこの先変わっていくんじゃないかと思っている。

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