ここだ愛(かな)しき

『多麻川に曝す手作(てづくり)さらさらに  なにそこの児のここだ愛(かな)しき』

 この歌を初めて聞いた時の感覚を忘れない。まるで冬のつめたい朝に戸を開けて最初に空気に触れた時のような、いきなりで、体中を走る、清冽な震えだった。
 目の前にひとつの光景が広がった。関東の冬だ。空気はきんと張りつめて痛い。川の流れがどこまでも果てしなく広がっている。川は川底を透かし清く澄んでいて、切れる程冷たく、痛い。流れの表面を滑るように手織りの布がさらさらと晒される。流れの中に立って少女が布の端を押さえている。冷たくかじかんだ手足の指は、逆に上気したように赤味を帯びている。それを見つめるひとりの青年がいる。青年は思う、なぜこんなにもこの少女がいとしいのだろう。さらにさらに、思いは胸のうちを溢れるように――。
 それは高校二年の国語の授業だった。わたしは教壇の高垣先生をぼんやり見つめた。授業は何もなかったかのように続いている。
「――これは東歌といって、田舎――といっても朝廷から見た今の関東だな、その無名の庶民が歌ったものが納められている。万葉集の歌の中でも、民謡的な色彩と生活に密着した素朴な情感が特徴だと、わたしのアンチョコには書いてあります」
 そう言って高垣先生は、黒板に『民謡的色彩』『素朴な情感』と書いて丸をつけた。
「けど、この作者は結構エロいな。素朴どころじゃない、情感ありすぎだ。――あー、分かんない?仕方ねえなあ。いや、いいです、君たちはガキだからね、分からなくてもやむを得ない」
 あちこちから戸惑ったようなざわめきが起こり、やがてそれはいつもの笑い声に弾けた。またあ、タカガキー、という声がする。先生は平然とした顔をして、目だけで笑っている。
 わたしはみんなに気付かれないように、そっとうつむいた。顔が熱い。
(分かったかも、しれない――)
 まるで頭の中を覗かれたような気がした。先刻の光景がよみがえった。川、さらさらと流れる布、赤く染まった少女の指先、それを見守る青年、募るいとしさの一情景。根拠はない。根拠はないけれど、心の奥深いところでわたしは、高垣先生とふたり、同じものを見ていたような気がしたのだ。
(みんなにはきっと分からない……)
 それは先生とわたしだけの光景だと思った。
 布を晒す少女の指が赤く染まる。わたしの心も赤く染まる。
 それが、高垣先生をすきだと思った、はじまりだった。

 高垣先生は国語科の教師なのに、いつも汚れたしわだらけの白衣を着ていた。髪はぼうぼうで無精ひげだらけ、やせっぽちで少し猫背だった。そして口が悪かった。ズボンをずり下げて穿いている男子を見れば「短足」と言ったし、化粧の濃い女子を見れば「化粧ブス」と言った。でも、いつも目が笑っていた。授業は脱線ばかりで、映画を見せたり漫画を回し読みさせたりしてばかりいたのに、なぜか試験までに範囲はきちんと終わっていた。生徒の評判はよかったと思う。友達は「高垣ー?フケツー」とか言っていたけど、それは嫌悪の表れじゃなくて、面白い先生に対する気安さだった。
 わたしは目立たない生徒だ。自分でも分かる。化粧もしないし髪の毛の色も変えないしスカートの丈もいじらない。高垣先生の目に留まるようなところは、何ひとつない。「化粧ブス」と言われてみたくても、いきなり化粧して登校する勇気はない。国語はすきで、成績もよかったけれど、そのおかげで再試験だの補修だので高垣先生の手を煩わす、違った意味での目立つ生徒になれなくて、こっちでも先生との接点がなかった。わたしが先生と顔を合わせるのは授業だけだった。ひとりの生徒、それがわたしだった。

 時の流れは速く指の間をさらさらと零れる。何も起こらず、何も起こる筈のない日々が、当たり前のように過ぎ去っていく。気付けばあっという間に二年は過ぎ去っていて、高校生という時間が終わろうとしていた。何も起こらず、何も起こる筈もなく、それが当たり前で。
 なのに突然、それは起きる。そしてひとを、どうしたらいいか分からなくさせる。戸惑う――。
 それは春休みのことだった。卒業式までのどっちともつかない時間、授業はもう終わっているのにまだ学校と離れてしまったわけではない時間、三年生がいないだけなのに変に静かな時間、そんな時だった。
 春休みだったけれど、わたしは毎日登校していた。受験勉強をしていたのだ。第一志望の大学の試験は終わっていたけれど合否の発表はまだで、第二志望の大学の試験のために準備をしていた。
 第二志望の大学の試験は、小論文のみだった。
 わたしは小論文が苦手だ。論文特有の断定口調が苦手だし、自分の意見に自身が持てない。でも、こうも言えるんじゃないの?なんて反対の可能性をわざわざ考えてしまう。そうこうしているうちに制限時間は来るし、字数は足りないし、さんさんたる有様になってしまう。図書館で時計を片手に問題集に取り組んでいたけれど、満足に書けたことはなかった。
 その日も憂鬱な気分で図書室に向かっていると、廊下で担任の先生に呼び止められた。
「小山さん、小論文勉強してるんでしょう」
「はい」
「他の教科と違って、一人でやるのは大変だと思うのよ」
「はあ……」
「だから、高垣先生に指導をお願いしておいたから」
 それがわたしの耳に届くまで、数秒かかった。
 たかがきせんせいにしどうをおねがいしておいたから。
「職員室に行って、教材をもらってね」
 ゆっくりと頬が熱くなるのを感じた。
 何も起こらず、何も起こる筈もなく。なのに突然、それは起きる――。
 わたしはぼんやりと職員室に向かった。職員室で高垣先生は、机の上に高く積み上げた書類の山から何かを探し出そうとして、四苦八苦していた。
「先生」
 小さな声で呼んだ。
 その声は聞こえなかったらしかった。先生はしばらく探し物に熱中し、そしてあきらめたように手を止めて頭をかくと、突然振り返ってわたしを見た。
「おう、お前か」
 先生は顔をくしゃくしゃにして笑った。胸がずきんと痛んだ。
「小論文だってな。どう?得意?」
「いえ、苦手です」
 わたしは堅苦しく答えた。ふうん、と先生は言って、
「意外だな。お前国語得意でしょ。センター試験の自己採点、百八十点いったじゃない」
とわたしをじろじろ眺めた。
 どうしてそんなこと知ってるんだろう。わたしは息苦しくなってしまう。空気が足りない。何も言えない。
「どんなの使ってるの。ちょっと見せてみ」
 先生は手を差し出した。わたしは焦りながらかばんを開け、使っていた問題集を取り出した。
「ふうん」
 先生は問題集を手に取り、ぱらぱらとめくって軽く読み始めた。それはつい先日解いたばかりの問題だった。
「えーと――日本では人口の高齢化が急速に進行しており、近い将来には超高齢化社会が到来すると見込まれている――。高齢者にとって望ましい生活環境について、以下の項目群の中であなたが最も大切だと思う項目をひとつだけ選んで、あなたの考えを八百字以内で述べよ――か」
 さらに先生は手を出した。
「で、お前の解答は?」
 恥ずかしいという気持ちがあっという間に湧き起こった。でも、先生の手は頓着がない。わたしは解答を書きつけた原稿用紙を半ば引っ込めがちに差し出した。先生はさっさと取り上げ、平気で読み上げた。
「えー、高齢者にとって最低限保証されなければならない生活環境は、住環境であると考える。以前報道で、年金暮らしの老人が、公共料金を払うことができなかったために電気の供給を止められ、ガスでプラスチックを燃やして明かりの代わりにしようとしたために、アパート全焼という火事を引き起こしたという記事を読んだ。この問題は、生活費の援助と言ったような、住環境とは別の問題かもしれないが、電気の供給はやはり生活環境の基盤だと言えるのではないかと考える……。――ふーん、ま、上手くはないな」
 わたしは下を向いた。頬が燃えるように熱かった。
 先生がさらにぱらぱらとページをめくる音が聞こえる。
「えー、模範解答は、と。――高齢者にとって医療施設の充実は何より切実な問題である。一つは施設の増設の問題、二つ目は施設内での対応の問題、最後に医療費の問題である。――高齢化社会への不安に対し、わたしたち自身の問題として医療の有り方を真剣に考える必要がある――か」
 先生は音を立てて問題集を閉じた。
「下手、だがお前の方が面白い」
 驚いて顔を上げると、にかっと笑う先生の顔が見えた。
「俺はお前の方がすきよ。『医療の有り方を真剣に考える必要がある』とかご立派に言われるより、電気料金払えなくて火事起こす爺さんの方がよっぽど切実だもんな。お前いいとこ見てるよ。あとはテクニックの問題だからな、何回も書いて慣れれば、いいもの書けるようになるんじゃない」
 わたしははい、と口の中で呟いた。もう、顔は真っ赤に違いなかった。
「さてと。それでさっきからお前にやろうと思ってた教材を探してるんだけど、見つからないのよ。どうも俺の机はごちゃごちゃで――おお、あったあった」
 先生は分厚いファイルのしたからくしょくしょになった紙切れを一枚引っ張り出した。
「はい、これ。問題だから。明日までに書いてこい。明日――そうだな、十時くらいにしとくか。添削して解説して――十二時には終わるだろ」
「よろしくお願いします」
 わたしは深く頭を下げた。手の中でしわくちゃな紙切れが、かすかな音を立てた。

 翌朝十時に職員室に入ると、教材準備室のドアを細く開けて、高垣先生は
「こっちこっち」
と手招きした。
 教材準備室は、職員室に隣接して設けられた小さな部屋だ。壁一面の本棚に、教科書業者の持ってきた教科書や参考書のサンプルがぎっしり詰まっている。真ん中には大テーブルがひとつあり、先生が教材の準備をする時や生徒と面談をする時なんかに、使われる部屋だ。
「はい、座って」
 高垣先生はパイプ椅子を押して寄こし、自分はテーブルの縁に腰掛けた。
「書いてきたか?」
「はい……」
 初めての先生の課題だった。自分ひとりで書いていた時とは比べものにならない、人の目に触れるというプレッシャーが、痛いくらいわたしの胃を圧迫した。それでも出来がよければまだましなのに、自分でも分かる程解答は散々だった。わたしは暗い顔で解答用紙を差し出した。
「どれどれ」
 高垣先生は解答用紙を片手に持ち、ふんふんとうなずきながら目を通し始めた。胸の鼓動を緊張と憂鬱がぐちゃぐちゃになって、わたしは固く椅子に腰掛けていた。
 高垣先生は段々無口になった。突然椅子を引っ張ってテーブルに向かったかと思うと、頬杖をついて解答用紙の上に身を乗り出した。そして時々首をかしげたりぶつぶつ言ったりしながら、白衣のポケットから赤ペンを抜き出して何やら書き込んだりした。
(宿題を解く小学生みたい……)
 わたしは先生の横顔をぼんやり見つめた。その表情はどこか幼くかわいらしくて、真剣、というより、いっしょうけんめい、という言い方が似合うような気がした。
 静かだった。遠くかすかに吹奏楽部の音の断片が聞こえてくるのが、ますます静けさを際立たせた。教材準備室はまるで外の世界と切り離されたかのようで、時間の流れさえゆっくりたゆとうようだった。いつの間にか、わたしの気持ちは落ち着いてきた。このまま高垣先生の横顔を眺めていたい。そんな気がした。
「うーん」
と先生が伸びをした。わたしは眠りを破られたようにはっとした。先生は首を傾げて髪の毛をかきむしった。
「お前は正直だな。正直だが、問題は問題として解かなきゃならない訳よ、この場合、うん」
 わたしは申し訳ないような気分になって、体を縮めた。
「だからな、ここで『功罪について考えを述べよ』と言われたら、『功』と『罪』と両方書かなくちゃならない訳よ。なのにどうして『罪』の方しか書いてない訳?」
「『功』がどうしても思いつかなかったんです……」
 わたしの声は消え入りそうだった。
「だから正直だっていうんだよ……」
 高垣先生はため息をついた。
「とりあえず何でもいいから書け。嘘でもいいから書け。それが練習になるんだから。そしたら、そのうち本当のことが描けるようになってくる。いいか、ちょっとこっち来い」
 わたしは一瞬とまどい、ほんの少し椅子を先生の方に寄せた。先生は頓着なしに、大きな音を立てて椅子をわたしのほうに引っ張って座った。寄せあった頭の髪と髪が今にも触れそうで、わたしは息が苦しくなった。
「ここはこれでいい訳。『グラフから読み取れることを記せ』っていう問題なんだから、まず何が読み取れるかずばり書くというのは正しい、な。で、その後にお前の意見が書いてある訳で、ここまでできてるんだから、もう一歩だ。こことここの間に『功』について読み取れることを入れる。で、この結論部をもっと膨らませる。そうすれば『功』と『罪』の両方に言及できて字数も増える、な」
「……はい」
 わたしは小さく答えた。その返事は自分でも頼りなく聞こえた。あまりにも心もとなげだったのだろう、先生はふっと力を抜いて、笑顔を見せた。
「大丈夫、できるから!」
 鼻がじんとし、笑いたいのに泣きたいような気分になった。
「……はい」
 もう一度、わたしは深く頷いた。

 なにそこの児のここだ愛しき――。
 ふとした瞬間に、この歌を頭の中で繰り返している自分に気付く。
 なぜこの娘がこんなにもいとしいのだろう――本人すら抑えようのない溢れかえる思い。深い深い愛。こんな愛で包まれたら、わたしはきっと息ができなくなってしまう。苦しくて苦しくて、なのに溺れるほど幸せで。
 その歌が高垣先生の顔と重なる。わたしはどきっとしてそれを打ち消す。
 だけどもし高垣先生がわたしにその歌を歌ってくれたら。そしたらきっと、苦しくて苦しくて、なのに溺れるほど幸せで。
 ありえない。ありえない話だ。
 けれどわたしは、またその歌を頭の中で繰り返している自分に気付く――。

 その日課題を渡して寄こした高垣先生は、ひどく上機嫌だった。
「お前、戦場カメラマンの本読んだことある?キャパとかサワダとかイチノセタイゾウとかさ。貸してやるよ。読むだけでも面白いからさ」
 課題の問題文を読むと、それは戦争における報道写真の役割を述べよというものだった。わたしは漠然と不安になった。書けなさそう。なんだか、とてもイデオロギーに満ちた課題のような気がする。そんなわたしを知ってか知らずか、先生は浮き浮きと本を二、三冊わたしに渡す。
 家に帰って先生の貸してくれた本を全部読んだ。そして問題文を読んだ。もう一度本を読んだ。
 駄目だ。不安は的中した。飲み込まれた。本に。問題文が余所事のようだ。
 わたしはベッドに仰向けに倒れ込んだ。天井を眺めた。天井の染みは本にあった写真に見えたり見えなかったりした。
 川を渡る難民の必死な表情、戦車に引きずられる女戦士のかぼそい体、きれいごとで隠すことのできない、戦争の真の姿。
 そんな写真を撮るために従軍する。戦闘に参加する。泥まみれで、命がけで、そして突然帰ってこなくなって。
 でも、写真は残る。命がけで切り取ってきた、写真は残る。
 わたしは長く一息ため息をついた。ここが日本で、平和で受験勉強をしているのが嘘みたいだった。
 問題用紙をのろのろと引っ張り出す。『報道写真の役割』。何て書けばいいんだろう。多分、「戦争の悲惨さを訴え、人々に反戦の心を持たせる役割を果たしている」というようなことを書けば、正解なのかもしれない。でも、わたしはもう本を読み、写真を見てしまった。そんな遠くから客観的に眺めているようなことは書けない。もっと、自分のこととして感じざるを得ないこと――。
「やってきたか?」
 翌日も先生は上機嫌だった。
「……はい」
 わたしはゆっくりと解答用紙を先生に手渡した。書きたいことを書いた。それだけは本当だ。そう自分に言い聞かせていたけれど、巧く書けたのかどうかは、まったく分からなかった。解答用紙から手が離れた時、何か取り返しのつかないことをやってしまったような怖さをふいに感じた。
「ふーん、なになに、『報道写真の役割』は撮る側に課せられた役割ではない。それは観る側、わたしたちに課せられた役割である。戦場カメラマンは直接戦争を止める力を持たない。それは彼らの役割の限界である……」
 先生の声はだんだん低く沈んでいった。わたしはお腹の底からざわざわと不安が上ってくるのを飲み込んだ。
「戦闘に参加し、戦争の現実の姿を写真として記録に留めるのが彼らの役割である。戦争を抑止する力は、観る側に委ねられる。報道写真の記録した戦争を観て心を動かされた人々が、真に戦争を止める力を持つ……。ふーん、あそう」
 先生は解答用紙を手にしたまま、ゆっくりとテーブルの周りを二、三歩歩いた。
「本、読んだ?」
「はい、読みました」
「ふーん、あそう」
 先生は解答用紙にちらりと目をやった。
「戦場カメラマンは直接戦争を止める力を持たない――戦争を抑止する力は、観る側に委ねられる――結局観る人次第って訳ね。ふーん、あそう」
 先生の声は低く、つまらなそうな響きがした。
「キャパとかサワダの仕事は、結局力を持たない訳ね。戦闘に付いてって、写真を写しただけな訳ね。あそう」
 先生は歩くのをやめテーブルの端に腰をかけた。背中を丸め、うつむいて、手持ち無沙汰そうにゆっくりと、手元の解答用紙を赤ボールペンで叩く。
 ぱしん、ぱしんと音がするたび、胸がぎゅっと痛くなった。そうじゃない、そう言いたかった。でも、どう違うんだろう。うまく言えない。うまく言えないからそういう答案になって、その答案を先生は叩く。
 沈黙の時間が流れた。先生は、答案を脇に置いた。遊んだ手が書架から参考書を一冊取り出し、ぱらぱらとめくる。取り出してはめくり、また収めて取り出してはめくり。
 わたしは先生を失望させたのだ。胸に食い込むほど痛かった。
 だけどそれは、初めてといっていい程書きたいことを書いた答案だったのだ。うまく伝わらなかったけれど、初めてのわたしの真実だったのだ。それを伝えたい、何を書こうとしたかを知って欲しい、だからわたしを見ていて欲しい、他の参考書なんて見ないで欲しい、わたしを見ていて欲しい。
「だって」
 突然わたしは自分の声が揺れるのを聞いた。そして、初めて自分が泣いていることに気付いた。涙は、大きく見開いた目の縁を越えて次々と溢れ出し、どこまでも止まらなかった。先生が驚いたようにわたしを見た。
「だって先生は、戦場カメラマンが戦争を止めるからすきなんですか。先生は、戦場カメラマンがすごいから、だからすきで、だからわたしに本を貸してくれたんじゃないんですか」
 わたしは先生を真っすぐ見た。涙に揺れる視界の中で、先生が絶句したままわたしを見つめていた。
 どれくらいの時間が経っただろう。先生はほっとため息をついた。
「――そうだな」
 わたしはまばたきをした。涙が頬に転がり落ちた。
「お前の言うとおりだ。戦争を止めるからすごいんじゃないんだ。戦場カメラマンそのものがすごい。だから心を動かされるんだな。そうだな」
 先生は照れくさそうに口を歪めて、ぼりぼりと頭をかいた。
「――俺もまだガキか」
 小さな声で、そう聞こえた。
「ん、もう泣くな」
 先生が差し出したのは、どこから引っ張り出したのか、くしゃくしゃの汚いハンカチだった。わたしはほんの少し躊躇して、それからそっと受け取ると、濡れた両の頬を拭いた。
「お前もバカだな。戦場カメラマンの写真がすごいと思ってるなら、すごいって書けばいいのに。あれじゃまるきり反対のこと書いてたぞ」
 先生は微笑んだ。
「下手なんです」
 わたしも泣きながら微笑んだ。
「ハナミズ出ないか」
「出ます」
 カバンの中にティッシュを探そうとした。その前に、先生がどこから出してきたのか、剥き出しのトイレットペーパーを差し出した。わたしは受け取ってくるくる紙を巻き取り、洟をかんだ。
「なんでこんなところにあるんですか」
「何かと便利なんだぞ。学校の備品だからタダだしな」
 先生は屈託ない笑い声を響かせた。つりこまれてわたしも思わず笑った。先生とこんなに話したのは、そしてこんなに笑ったのは、初めてだったような気がした。

 なにそこの児のここだ愛しき――。
 もう平気だった。わたしは毎日先生に会い、先生とひとつの課題に向かう。話し、笑い、そしてまた明日がある。
 なにそこの児のここだ愛しき――。
 そう言われなくてもいい、わたしは今、先生に一番近い生徒、それでいい。
 それはわたしの、小さな小さな自信。

 第一志望の合格発表の日が来た。眩しいほどよく晴れた日だった。
 わたしは大学の広場に設置された掲示板の前で、合格者の番号が貼り出されるのを待っていた。
 広場は、発表を見に来る受験生と親、そして歓迎の在校生でごったがえしていた。あちこちで、合唱団のコーラスや吹奏楽の音が鳴っていた。
 胸の鼓動が痛いくらい速くて、息が苦しくて、口の中がからからだった。
(五分と五分くらい……)
 自信はあった。けどなかった。ある瞬間合格するような気がし、また次の瞬間には落ちるような気がした。お腹の底がきゅううと引き絞られるように緊張していた。
 十時ちょうど。大学の職員が合格者の番号が書かれた紙を、一斉に貼り出した。うわあというどよめきが走り、受験生たちが掲示板前に詰め掛けた。わたしはその波に翻弄され押しつぶされるようになりながら、掲示板前に押し出されて、紙を見上げた。
(わたしの番号、わたしの番号……)
 きいんと耳鳴りのするような長い一瞬、
(……あった!)
 一気に体の力が抜けた。急に手足ががくがくと震えた。コーラスと吹奏楽の音が、一気に弾けた。
(先生に――先生に知らせなくちゃ……!)
 わたしは人の波から体を引きむしるようにして、ぐいぐいとその外に出た。他のことはもう何も考えられない。ただ、高垣先生に知らせなくちゃ、そればかりを思った。
 わたしは走った。いらいらと遅い電車に乗り、ドアが開くやいなや走り出して改札をくぐり、学校めがけてひたすら走った。息が切れ、泣きそうになりながら、ただただ走った。
 周りが見慣れた学校近くの風景に変わり、校門が見え始めた。構内に入り、生徒用の玄関に駆け込んだ。
(先生……)
 目を上げると、高垣先生が階段から降りてくる、その姿が見えた。
「先生――!」
 わたしは自分が泣くんじゃないかと思った。先生は顔を上げた。わたしの声は震えていた。
「わたし――受かった――」
「ほんとか?」
 先生は顔中くしゃくしゃにして駆け寄ってきた。
「やったな!すごい!よくやった!」
 先生はわたしの両手を握り、ぶんぶんと勢いよく何度も振った。腕が抜けそうなくらい、勢いよく振った。先生の手は温かかった。限りなく温かかった。
 その時ふいに、わたしは高垣先生との時間がもうお終いだということに気付いた。もう小論文は必要ない。先生に指導してもらうことも、もう必要ないのだ。
 わたしは先生を見つめた。ぼうぼうの髪、無精ひげ、しわだらけの白衣――。
「――先生」
 ほとんど意識しないままに、わたしはそう口に出していた。
「ん、何だ?」
 先生は訊き返す。目じりにしわのよった、そのやさしい目も――。
「あの歌――言ってみてくれませんか。あの、多麻川に――で始まる東歌」
 先生は不思議そうな顔でわたしを見た。ゆっくりと唇が動いた。
「――多麻川に曝す手作さらさらに なにそこの児のここだ愛しき」
 言いたいことが溢れた。でも何も言えなかった。わたしはじっと先生を見つめ、それから手を引いて静かに頭を下げた。
「――どうもありがとうございました」

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2009年発行個人誌「ここだ愛しき・青い空の底で」より抜粋、一部修正

高校の時好きだった先生のことにエッセイで触れたので懐かしくなり、こちらの小説もアップしてみました。その先生は国語の教師じゃありませんでしたし、わたしもこれほどしおらしい少女でもありませんでしたが。
しかし、2009年の段階では、こういうセンシティブな感じの作品を書いていたのに、今ではセックスセックス連呼しておりますので、いったいわたしに何が起こったんでしょう。不思議です。

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