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自分の加害者性を子供の頃から薄っすらと抱えてきて良かった。

 人は誰でも、強者にも弱者にもなり得、加害者にも被害者にもなり得る。わたしたちはいつでも、両義的なのだ。

 子供の頃から、割と薄っすらと自分を後ろめたく思っていた。なぜなら、自分で言うとちょっと嫌らしいが、田舎の子供たちの中で飛び抜けて頭が良かったからだ。抜けて頭が良いということは、周りの子供たちにも大人たちにも、ちょっとした加害性を帯びる。こちらにその気がなくとも、他人を傷つけるのだ。この、日本の、「成績が良いことが絶対の評価軸だが、飛び出すぎないようにそこそこマイルドに頭が良い」ことが一番褒められるガッコウの世界では。

 それでも40の半ばを過ぎて、わたしはこれをこじらせて、「強くて何が悪い」「むしろこっちの方が被害者だ」的な方向に行かなくて良かったとつくづく思う。

 最近見かけるエリート意識を煮詰めすぎたような妙な被害者意識の目立つ東大卒の心情吐露は、「自分は強者なのに、そう振る舞っていい筈なのに、なぜそれが許されないのだ!」という苛立ちと傷つきのように思う。私立小中高や偏差値高いと言われる学校に入って「頭の悪いヤツらに僻まれない環境、快適!」とか溜飲を下げる人たちは、押し込めた「むしろこっちが被害者だ」の鬱屈の発散のように思う。

 強者の後ろめたさはそのように弱者を攻撃する方に転換されるが、でも多分わたしはそれをしなかったから、自分が弱者にまわった時も、同じ弱者たち(精神的なつまづきで労働社会からドロップした人たちや、構造的理由により結婚と家族優位社会からドロップした人たちや)と分かり合えたと思う。そして後ろめたさを後ろめたさのまま抱え続けていなかったから、弱者にまわった時に「これまでやってきたことの報いだ」と自分を責めずに済んだとも思う。あと好きな人から絶縁された時のことを振り返ると、自分の弱さを利用してさんざん相手を圧迫する、パワーの弱さを強さとし、弱者の立場で人を加害することの酷さ、それを知ったことも良かったと思う。ほんとうに、立場や状況や評価軸の変化や時間経過で、人は簡単に強者になったり弱者になったり加害者になったり被害者になったりするのだ。

 パワーはその気がなくとも、時として周りをぶん殴る。ぶん殴っちゃったことに傷つくこともあるけど、(そんなつもりじゃないのに……)と傷つくこともあるけど、パワーの巻き添えを食った方も勿論痛いし傷つくのだ。パワー自体が悪い訳じゃないけど、無自覚に、あるいは「強いんだからしょうがねぇだろ!」と開き直って腕を振り回すと、確実に他人を傷つける。加害者が被害者意識を募らせると、最悪だ。「こっちの方が可哀そうだ!」と叫びながら、他人を殴り続けるから。かといってじくじくと自分の加害者性に悩み続けても、自分を傷つけるし、周りの人たちも居心地悪い。なんか傍にいると疲れる。

 じゃあどうしたらいいのか、と考えると、自分の持つパワーの強さ弱さ、立場の強さ弱さ、それらが帯びる加害性から目をそらさず、それでも無理をせず楽しく他者と一緒にいる方法を、徐々にゆっくり探って身につけていくことではないか、と思う。難しいことだし、わたしも完全に身につけた!とは言い難いけど。そしてそういう、楽しく他者と一緒にいる道、というのは、「自分は加害性を持ち合わせている」という事実とも、落ち着いて一緒にいる道ではないのかな、と思うのである。

「存在するだけでどうしようもなく加害的」ということは起こり得るのだし、だからといってその加害者性は手放せない。男であるということはやめられないし、頭がいいということもやめられないのだ。後者に異論のある人はいるかもしれないが、つまり生得的なことでも後で身につけたことでも自分を否定することは嫌だし、否定しなくていいということだ。加害者には絶対なる。だから、男であることや頭がいいことや親が金持ちなことや環境に恵まれていることに、死ぬほどつらくならなくていい。自分の加害性に気づきそれと向き合う経験は、勿論とてもつらいことではあるけど不幸なことじゃなくて、むしろ幸運なことだと思うのである。

「自分は恵まれていた」と「自分は努力した」は別にバーターじゃなくて、普通に両立すると思う。わたしのうちは裕福ではなくむしろ大学に進学するにはびんぼう過ぎるくらいだったと思うが、「女が勉強しても仕方ない」みたいな環境には一切いなかった。その点においては、本当に恵まれていたと思う。それでもわたしは確かに努力したし(嫌々無理してやったことではなく、やりたいことやってたら結果的に努力してただけだけど)、獲得したものは明らかにわたしの努力の結果だ。「恵まれていた」という事実は、別に努力したことを否定はしない。恵まれていなかったという事実が「努力しなかった」ことを意味しないのと同じように。だからこそ、努力して獲得したのだからこそ、それを自分が得をし有利になり優位に立つためだけに使ったら、「お前の達成、お粗末すぎだろ!」と自分で自分の努力が恥ずかしくなるようなことだと思うのだ。

あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。女性学を生んだのはフェミニズムという女性運動ですが、フェミニズムはけっして女も男のようにふるまいたいとか、弱者が強者になりたいという思想ではありません。フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です。(上野千鶴子、平成31年度東京大学学部入学式祝辞抜粋)

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