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なぜ、中国やフィリピンから女子を連れてきてはいけないか。

 と、タイトルを書いたものの、わたしの上記の問いに対する答えは、「え……だって……どう考えても駄目じゃん」と、あまりにも虚を突かれて思考停止してしまうのだ。皆さまもそう思わないでしょうか。「嫁が足りないからといって、中国やフィリピンから、女子を連れてきてはいけない」という話なのですが。

 そしてもうひとつ困惑していることがある。それはおそらく、「嫁不足のあまり中国やフィリピンの女子を連れてくるのがブームだったのは、もうかなり過去の話だ」ということだ。多分、もうそんなことを真剣に考えて事業化している人たちは、いないと思う。だから、この稿を読もうとする皆さま方も、この今さらな問題設定に当惑するのではないかと危惧している。(※と思って念のため検索してみたら、あった!怖い!団塊世代の男性向けの、介護や親の世話要員としての、アジア圏嫁斡旋業がまだあった。怖い!)

 なぜわたしが今さらこんな稿を書き出すかというと、うちの町の結婚支援員の長老(86歳)が、時々定期的に言い出すのだ「今はもう、中国人との縁組はやらないのか」と。わたしはその都度やんわりと「それはちょっとおすすめできない」という話をするのだが、一定期間経つとまたその話が出てくるのだ。山のキノコが、収穫しても菌糸が残っているので、何度も何度も生えてくるように。もう勘弁してほしい。先日の土曜日も、まさかと思ったらその話が出てきたので、考え込んでしまって、今日こうして書いているという訳だ。

 勿論、人道的な、人権的な話から言って、これは本当にちょっとアウトなのだ。というか、そこのところはもうわたしの中では当然の感覚なので、長老の根絶しないこの提案に呆然としてしまう。「中国人の嫁など、認めん!」とか、「日本人は日本人同士結婚せねばいかん!」とかいう話ではない。わたしの彼氏も外国人だし。国を越えて結びついた人たちを非難する話ではない。これは、個別論としての国際カップルの話ではなくて、嫁に来た当人の是非の話ではなくて、もっと大きい話だ。この件のよろしくなさは、「日本人男性と欧米諸国女性との縁組を組織的に斡旋したりしない」とか、「日本人女性が欧米系白人男性ではなくてアジア・アフリカ系男性と結婚したりすると、厳しい目で見られる」とかいうことを考えた時、浮かび上がってくる。要するにそこには、日本人男性の持つ(もしかすると女性も持っているかもしれないのだが)、カップルにおける性別間人種間のパワーの偏り、みたいなものが絡まっているのだ。多分、経済的な格差の問題も絡まる。彼氏の話だと、イギリス人男性向けのロシア人女性斡旋のサイトもあるそうだ。

 しかし、長老のこのナチュラルな感じからすると、一概に、「人種と男女の偏見にまみれたあまりにもな考え方」とも切り捨てにくいのだ。東南アジアに行って買春をするようなタイプの方ではないと思う。むしろもっと無邪気に、「地元ではなかなか結婚するおなごも見つけられないし、中国には結婚したいおなごも、結構いるっけな」くらいの感覚のような気がする(※現在は中国でも結婚難なので、おなごは余っていないと思う)。そういう意味では、彼の中では、日本女子も中国女子も同列に扱っているようなニュアンスだ。そこでわたしはこの稿では、「地域に根付いた男性が地域の結婚を考える際、どうしても地域に定住する男性メンバーの視点からしか考えられない」つまり「どこか余所の地から女性を連れてくるという観点からしか考えられない」ということについて、語りたいと思う。

 古い地域の古い構成員たる男性が地域の結婚を憂う際、実は、彼らの目に映る問題点は「婚姻の減少」ではなくて、「嫁不足」なのである。地方で結婚支援の必要性が言われ出したのは、実は少子高齢化を問題視する政府が始めた「官製婚活」が端緒ではなくて、一次産業従事者の男性が結婚できない問題、いわゆる「農家の嫁不足対策」が始まりである。多くの地域で婚活施策に手を付けたのは、お役所よりも農業団体の方が古く、今でもその施策のルーツを辿れば、農協だったり農業委員会だったり農業青年団体だったりが発端だったりする。要するに、対策しなければならないと問題視されるのは、地元定住型男子の結婚なのである。地域の構成員としてカウントされるのが、地元に残る男性だけだからだ。女性は、実際外に出ようと地元に残ろうと、余所に嫁いでいなくなる存在として、透明視される。現在様々な地域でいろいろな団体が行う婚活事業が、基本的に地元男性だけのために行われているのも、そういう伝統だと思う。

 だから、地域の構成員たる地元男性が考える婚活施策は、どうしても、「余所の地域から嫁を連れてくる」ものになってしまう。地方でいまだに隆盛なのは「首都圏女子をターゲットに、農村男子と出会わせるイベント」だし、「ナイナイのお見合い大作戦」も、結局そういうニーズを掬った結果だと思う。うちの町にもあれに熱い視線を向けるお偉いさんがいて、わたしはそれについてもそのたびにやんわりと「やめておきましょう」と言うのだが、それでも折りに触れて浮上してくる。わたしが「お見合い大作戦」に乗り気でないのは、そもそもあれは「ショー」である、ということと、あれをやると化学肥料を大量投下して収穫高を上げた後みたいに、その後数年は実りがなくなるだろうという予想が立つからであるが、なんていうか、若者の大量動員の夢から逃れられない層が、一定の厚さであるような気がする。「そんな集団就職じゃあるまいし!」と思ってしまうが、集団就職を実際に経験した層がまだ現役でいたりするから、田舎は怖い。

 しかしだ。女子にそれをさせていいのか?結婚を境にして、それまで属していた社会も、集団も、家族も、友達も、職場も、寸断するような形で、新しい世界にジャンプさせようとするのは、無体な要求なんじゃないのか?人生リセットを望む女子にとってはそれでもいいのかもしれないが、リセットした先の人生がどうなるかの保証もできないのに、それを煽るような真似は、無責任だと思う。女子向けにお話しすると、今の人生をリセットしたいなら、転職を考える方がいい。なぜかというと、結婚で試みるリセットは、自分ではコントロールできない要素によって決定される部分が大きいし、方向転換するのも、職を変えるより面倒くさいからだ。それに大抵の場合、方向転換した時同時に職も失う。

 わたしが縁組をする場合は、女子の実家と男子の実家が、あまり離れすぎていない範囲で持ちかけることにしている。勿論これは、地元民だと夫方居住が一般的だからなのだが、要するに、女子がその気になったらすぐ帰省できる程度の距離、ということだ。ちょっとホームグラウンドに戻りたくなった時に、あまり金もかからず、夫に気兼ねもせず、自力で帰れる程度、ということ。女子の結婚後の住所とホームグラウンドとの距離は、一種、その女子の結婚後の自由度に結びつくと思う。その観点から言っても、中国女子やフィリピン女子を結婚のために日本に連れてくるのは、おすすめできない。ホームにアクセスするのに、ハードルが高すぎる。恋愛結婚ならまだしも、いや、それでも故国を離れた生活のストレスは、あると思う。また、「実家とはもう、縁を切りたい」という女性もいると思うが、その場合も、すぐに結婚するよりまず自分だけの暮らしをスタートさせて、そこで基盤を作って、そこをホームグラウンドとしつつ結婚する方がいいと思う。

 こういうことを考えてくると、昔の女性にとっての結婚は、あまりにも「人生新たな幕開け」的過ぎだったよな、と思う。「いったん嫁いだからには、あっちの人となって」的要素があり過ぎだったと思う。昔はそれもうまく機能したのかもしれないが、この現代、人生最初の20年なり30年なりがなかったことになってしまうのが結婚だとすると、そりゃあ、減る。

 ついこの間うちの町で、昭和初期の「嫁入り行列」を復活させるイベントが行われた。県内でもかなり好意的に取り上げられたのだが、わたしは相当複雑な思いがしたので、沈黙を守った。個人的にはもう「嫁」という単語とか「嫁入り」とかいう概念は滅んだ方がいいと思っている。うちの両親は嫁入り行列現役世代なので、雑談で聞くともなしに話を聞いたが、それだけでも、嫁入り行列は婚家という新しい帰属集団への嫁の加入儀礼なのだな、ということが分かる。また、この儀礼には付き添い役的な男児女児が付き物なのだが、母の話によると、片親の子どもはこの役を務められないそうで、戦争で父親を亡くした母はすることができなくて、羨ましかったそうだ。ちょっと話を聞いただけで、やっぱりもう、現代には復活させなくていい家族観だと思う。このイベントを行った団体は若い人たちの団体なので、少しかなしい気分になった。伝統文化の保存は大切なのだけれども、それでもちょっと、やり方によっては、未来志向の家族観、結婚観を、このイベントに加えることができたんじゃないだろうか。だって今、まがりなりにも結婚は当事者同士の合意で成立するのだし、ひとり親の子どもだって普通にいるし、夫婦別姓や同性婚の動きだって、進んできているこの世界なのに。

 中国女子やフィリピン女子をなぜ連れてきてはいけないのか、という話だが、日本人女子の話とも共通することは、要するに、女子は男子の所有財ではないのだ、ということだ。地域定住不動の男子が、与えたり手に入れたりしてやり取りする、動産じゃないのだ、ということだ。文化人類学の世界では、親族構造を女性のやり取りで分析したりするけど。でもそれこそ、「じゃあお前らこれからチョンマゲな」じゃないんだから、「女は余所から連れてくればいい」じゃないのだ。女子の人生の継続性をきちんと考えるべきだ。男子の人生が結婚前も結婚後も繋がっているように、女子の人生も繋がっているのだ。彼女らにはそれまで育ってきた場所があり、学んできたことがあり、してきた仕事があるのだ。そして、結婚した後も人生は続くのだ。結婚を選んだ時、女子の人生に何度も断絶を余儀なくさせるこの国の無自覚な無邪気さが、じわじわと自分たちの基礎体力を削っているように思えてならない。

 だけどどうして地方の男性たちは、「どこか遠くの大量の女子たち」の夢から離れられないんでしょうか。「地元の、地元で生活を送りたいと考えている、あからさまではないけれども結婚願望のある女子たち」がいるのに。見えないんでしょうか。わたしには見えるけどな。

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カバーフォトは、「みんなのフォトギャラリー」より、Tome館長 さんの写真を使わせていただきました。ありがとうございマス!

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