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#846 こうして西鶴の霊も消えてしまいます…

それでは今日も坪内逍遥の『梓神子』を読んでいきたいと思います。

西鶴の霊が自身を冷遇する現在の文界に怒りを込めた恨み節をまき散らしたことに対して、怨霊に取り憑かれた主人公は、迂闊な答え方をしては物笑いになると謹んで答えようとします。人間の身体は有限で、妄想は果てしない。人生五十年、やり場のない限りなき妄想に苦しみ、昼夜夢を見ぬことはない。昼の夢は妄想の掃きだめである。汚物の中から疫病も湧けば、肥料もできる。学問の大発明も昼の夢の結果であるし、大議論も大詩篇も夢の中の寝言である。ただ常住の題目はおもに未来である。労働を厭わぬことも、真理を追究することも総体の未来を思いやればこそである。「陽」は過去を思うように見えるも、「陰」は温故知新で未来の料にすることである。一身の帰着、人間の命、造化の本性、すなわち未来相を知ろうとするのは人間の大欲である。未来を知ろうとするには、過去現在を台として、因果の理を法として測るのである。過去現在ふたつの相は必要であるが、「常識」というものは、このひとつだけで充分足りるものである。十五歳の子の、二十歳の行く末を察するには、五歳の過去より現在から察したほうが簡易である。作者の理想を広くして当代を容れれば、隠然として未来の社会が見える。シェークスピアは、作品の元を古代ローマなどに借りていながら、エリザベスの時代を写している。さらに、小理想を持った人間ではなく、また、自然の教えをそのまま写しているので、現在に至っても、我々の智と情を動かし、未来をも教えてくれる。世話物、時代物と別を立てるのは、皮膚の上の話であって、本体に至っては、その差別はない。世話物が寂れるのは世話物の罪ではない。世話物作者の多くが大いならざるためである。

形容詞を加へて彼等が理想中の廿四年即ち當代[トウダイ]の一斑[イッパン]を寫せりといはヾ妥當[ダトウ]ならん。嗚呼、群盲巨象[グンモウキョゾウ]をさぐらば、其尻尾[シリオ]の手触り能く全象[ゼンゾウ]を示すに足るか、覚束無し。足下[ソコモト]斯く論ずるをそれがしが論ずるとな思ひ僻[ヒガ]めたまひそよ。某[ソレガシ]の聲にあらず、我慢逆上[ガマンギャクジョウ]の聲にもあらず。此の聲来[キタ]る所を知らず。それはさて置き、それがしは常に時代物をもて世話物の兄と思へる故に、其大人びて優美なるをも又温雅[オンガ]なるをも亦思慮深きをも知れり。十郎祐成[ジュウロウスケナリ]至孝[シイコウ]にして其本意[ホンイ]弟と同じからば、それがし彼れが生長[セイチョウ]を喜ばざるべしや。然れども今の傾[カタムキ]を察すれば、箱王[ハコオウ]は質樸[シツボク]にして眞摯、天眞爛漫、城堡[ジョウホウ]を設けずしておのづから威儀[イギ]あり。

1193(建久4)年5月28日、兄の曽我祐成[スケナリ](または一万)と、弟の時致[トキムネ](または箱王)の兄弟が、殺された父親の仇である工藤祐経を富士野で討ちます。かつて尋常小学校の教科書にも掲載された、この「曽我兄弟の仇討ち」物語は、「赤穂浪士の討ち入り」「伊賀越えの討ち入り」と並ぶ、日本三大仇討ちのひとつに数えられています。

それがしはむしろ、彼れが長じて本望を遂げんことを禱[イノ]るものなり。案ずるに足下[ソコモト]は已[スデ]に諸家の説ありし如く、我國寫實派の一祖宗[ソシュウ]ならん。たとひ普遍相に長じて特殊相に短かりきとするも、假令[タトイ]不知庵主がいへりし如く、廣うして浅かりきとするも、一種の世話物の泉源[センゲン]は正[マサ]に足下より起りしなるべし。足下の明治に蘇りたまひしは、何條[ナンジョウ]松魚節[カツオブシ]の出[ダ]しに使はるゝに同じからん。物體[モッタイ]も無き儀なり。其[ソレガシ]不敏[フビン]なりと雖も其大[オオイ]に蘇生せざる可[ベカ]らざる所以ありしを知るなり。乞ふ今少しくいはん。言ふ所つまらぬとて気短かに消えてなくなりたまふな。

西鶴の霊も消えてしまいましたね……

というところで、「第六回」が終了します!

さっそく「第七回」へと移りたいのですが……

それはまた明日、近代でお会いしましょう!

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