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#781 固有派は宿命に従う

それでは今日も坪内逍遥の『小説三派』を読んでいきたいと思います。

逍遥は春陽堂から刊行された「新作十二番」シリーズの先行4作を評するにあたり、「固有派」と「折衷派」と名付け分類します。

夫[ソ]の固有派の巨擘[キョハク]曲亭(馬琴)の作を見るに、悪人は暫く措き忠良の人の上に起れる禍は、大抵天の為せる災にしてみづから招けるはいと稀なり。其他(山東)京伝種彦の作も、転変流離の誘因を偶然に帰したるが多し。例へば里見伏姫の不幸も、自意識を標準としていへば自ら致せるにはあらで、全く其意識の外より来れり。又芳流閣の災難も信乃[シノ]が心の罪にはあらで、圖[ハカ]らず外部より来れるなり。即ち事と人の心との間に(災厄と性行との間に)必ずしも密接なる関係無し。事を主として人を客とし、事を先にして人を後にしたればなり。所詮此派の作者は俗にいへる三世因果の説を理法とし、若[モシ]くは天命の説を理法とするなり。就中[ナカンヅク]曲亭の作はをさをさ三世因果の説によれり。「八丈綺談」「春蝶奇縁」「累解脱」等を見てもしるけし。それだにおしなべて小乗の心なりまして、其末流に及びては此の理やうやうおぼろげなれば、人心と事変との縁ますます遠くなり、動[ヤヤ]もすれば宿命説(フヘタリズム)の趣に似たるものあり。

fatalismは、ストア哲学の自然法則、キリスト教の予定説、儒教の天命説にも通じます。

草双紙などに見えたる忠臣孝子の災厄は間々[ママ]宿命(フヘート)の所為とも見えて理[リ]無し、有為転変諸行常無しと解せば解すべし、しからざれば巻を措きて天道の是非を疑はざるを得ず。在来の作者が筆を曲げても毎[ツネ]に団円をめでたくせしは、一つには此不審を釈[ト]かんが為なりしならん。恐らくはおのが心にも安[ヤスン]ぜざる所ありければなるべし。到底近年の固有派は天命の説を(作者みづからは意識せずもあれ)奉じたりと見て可なり。栄枯福禍を必ずしも人に帰せざればなり。此派は外國にも多かりき。中古の物語類はいふも更なり、スモーレット、フヒールヂングの徒頗るよく性情を写せれど、其実は事を先としたる也。スコット、ヂッケンスも亦間々然[シカ]り。只後者の旨としたる所は、事のみにあらで人にも在り、事を先にすれど事を主とせざる所異なれり。此差別は次の折衷派と共に説くべし。

イギリスの小説家トバイアス・スモレット(1721-1771)は1748年『ロデリック・ランダム』を刊行し英国小説史にピカレスク小説を確立し、1751年に写実小説『ペリグリン・ピックルの冒険』を刊行します。

イギリスの小説家であり治安判事でもあったヘンリー・フィールディング(1707-1754)は代表作『トム・ジョウンズ』で「イギリス小説の父」と呼ばれてますが、彼は組織犯罪の先駆け的存在であるジョナサン・ワイルド(1683-1725)の人生を描いたピカレスク小説「ジョナサン・ワイルド伝」を1743年に刊行します。

ということで、この続きは…

また明日、近代でお会いしましょう!

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