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「壊れていないものを直すな」

昨日書いたものの続きっぽくなりますが、漫画『アドルフに告ぐ』は、雑誌連載時のものと、後に単行本化されたもので内容が異なります。今回豪華な函入り本として出たものは雑誌掲載時のそのままの状態、世に初めて出た時の姿を復刻したものです。連載時は週に10ページのストーリーを構成し、それを絵にするという過酷なスケジュールですから、手塚治虫さんにしてみれば後から見直すと、もう少しこうしたかった、この絵はあまり良くないから描き直したい、といったことは当然あるでしょう。細かな修正や、大幅な加筆によって仕上がった単行本のバージョンは、映画の世界で言うと、監督が自分の思い通りに編集した<ディレクターズ・カット>とか<ファイナル・カット>に相当するものですね。

映画の話をすると、1990年代あたりを境に、さまざまな映画のバージョン違いが世に出るようになりました。一番有名なのはリドリー・スコット監督の『ブレードランナー』で、そもそも1982年の初公開時から暴力シーンのあるなしで2バージョン存在したのですが、初公開時に鳴かず飛ばずだったこの映画が年を経るごとにファンの間で神格化されて行き、1992年に<ディレクターズ・カット(最終版)>が、さらに2007年に<ファイナル・カット>が公開、パッケージ化されています(それらの差違については、もうさんざん語られているのでWIKI等をご参照ください)。僕は後のバージョンも好きですが、やはり、最初に衝撃を植え付けられたのは初めのものですから、そちらにも思い入れがあります。

ちょうど今、『地獄の黙示録』も<ファイナル・カット>をIMAXで上映していて(当初、2週間限定だったはずですが、コロナウィルスのおかげで新作の公開が軒並み後ろ倒しになったからでしょう、まだやっていますし、近々ドルビーシネマでもこのバージョンがかかります)、この映画の場合も、1979年の初公開版(2時間33分)があり、その後、コッポラ監督が2001年に再編集した特別完全版(3時間22分)が出来、さらに「アレはさすがに長すぎた」と今回のファイナル・カット(3時間2分)が出来ました。僕は間の最長版は見ておらず、初公開以来、実に40年ぶりに今回の版を観たのですが、明らかに足されていることに気づいたのは後半のフランス人たちの集落に立ち寄る部分。話としてはあってもいいし、ヴェンダースの『パリ、テキサス』でハンター少年の育ての母親をしていたオーロール・クレマンが出演していた(しかもほとんど必然性なく裸になったりする)のは嬉しかったものの、クライマックスの手前でちょっと腰を折られすぎた感はありました。

コッポラは他にも『ワン・フロム・ザ・ハート』とか『コットンクラブ』など自作の再編集版を後に作っていて、生きている限り、自分の作品を直し続けたいのかもしれません。仲のいいジョージ・ルーカスも最初の『スター・ウォーズ』三部作にはCGを足してしまったし(そのCG部分が今となっては一番時代感を感じさせることになってしまったのは大きなしっぺ返し)、スピルバーグも『未知との遭遇』や『E.T.』には手を入れている。反対にマーティン・スコセッシは「自分の作ったものは全て、初公開版=ディレクターズ・カットである」として、一切、過去作には手を付けません。比較的コンスタントに新作を作り続けているので、そんなことをやってる暇なんかないのでしょう。

多くのハリウッド映画の場合、映画の権利はそれを作るためにお金を用意したプロデューサー(製作者)にあります。アカデミー賞授賞式の最後に発表される「作品賞」で壇上に上がるのはプロデューサーです(まあ、最近はこの間の『パラサイト』のように関係者全員がワーッと上がっちゃいますけれど)。ですから、映画の最終的な姿を決める権利、ファイナル・カット権もプロデューサーが握ることが多い。監督が完成させたものが長すぎるとか(長い映画は映画館で1日にかけられる回数が減りますから興行収入に響いてきます)、公開前のスニーク・プレビュー(覆面試写会)でお客さんの反応が良くないとか、そんなことがあると、なんとかその映画がちゃんとお金を稼げるように大鉈を振るいます。冗長なシーンをカットする、編集を変えてテンポをよくする、アンハッピーエンドをハッピーエンドに変える、何かが足りなければ再撮影もさせる(スタジオに使えそうなストックの映像があればそれも使う……『ブレードランナー』の初公開バージョンにだけ存在する最後の空撮はキューブリックの『シャイニング』の為に撮影されたものです)。

今、Blu-rayで<ディレクターズ・カット>が見られるドイツ映画『ブリキの太鼓』も、初公開時、当初の契約よりも仕上がりが長くなってしまったので、監督のフォルカー・シュレンドルフはやむなく映画をカット。ところがそのバージョンがカンヌ国際映画祭でパルムドール(最高賞)を獲り、アカデミー賞でも外国語映画賞を獲ってしまった。シュレンドルフはその栄誉を得て「やった!これで最初の編集版に戻せる!」と小躍りしたのですが、製作者からは「お前はバカか! 賞を獲ったのが不完全なバージョンだと世に知られたらどうする。このことは今後一切口にするな」と言われてしまいます。彼は『アパートの鍵貸します』『お熱いのがお好き』などで知られる名監督ビリー・ワイルダーとも懇意だったのですが(『アドルフ』に話が繋がりますが、ワイルダーはユダヤ系で、1930年代にナチスの台頭から逃れてアメリカに渡った移民です。シュレンドルフはワイルダーのドキュメンタリーも撮っている)、彼からも「壊れていないものを直すな」と忠告されました。

ところが今世紀に入って、現像所から「当時のネガが出てきたけどどうする?」と連絡が入り、一瞬「捨てちゃえば?」とも思ったらしいのですが、今ならもう時効だろうと思い直し、当初、自分が考えていたとおりの<ディレクターズ・カット>版を作ったのでした。初公開版もそもそも2時間22分あり、それがさらに伸びて2時間42分になってしまったので、今一つ人気がないようですが、初公開版を観た時に「一体、この男はどこから出てきた?」と訝しく思っていたキャラクターにちゃんといくつかの出番があり、そういうことだったのか、と納得したりもするのです。

(それにしても公開時、大きな話題となって、これに感化されたあの英国のバンドJAPANが"TIN DRUM(邦題:錻力の太鼓)"という題名のアルバムを作ったりもしたこの映画が近年あまり話題に上らないのは、蓮實重彦がシュレンドルフを嫌いなのが災いしたのか、はたまた原作者のギュンター・グラスがこんな作品を書いていながら実はナチの武装親衛隊のメンバーだったという晩年の告白によるものか……僕はこの映画、けっこう好きなのですけどね……大友克洋の『童夢』や『AKIRA』の超能力描写だって、この映画のオスカルの声がヒントになってるでしょう?)

バージョン違いのある映画、他にも挙げていけばかなりの数が出てくると思うのですが、こういうものが生まれるようになった背景としては、1996年にDVDが、さらにその先にBlu-rayというメディアが誕生したことが一つ。映画ソフトに「特典映像」というオマケが付くようになり、そこに本編からはカットされたシーンや、メイキング映像が付くようになった(レーザーディスクの時代にも始まっていたのですが、映画のパッケージソフトのコレクションが市民権を得たのはやはりDVDからでしょう)。人々の映画の見方がそれまでの純粋な鑑賞者としての目線よりも、作り手側の立場に立ったものに変わってきます。そうした中で『ブレードランナー』のような作品は、違うバージョンを別商品として発売もするようになる(1枚のBlu-rayで、いろんなバージョンを横断して見られる仕様のものもあります)。同じ映画が2回3回売れるのですから映画会社、メーカーにとってはホクホクです。パッケージ商品が、違うバージョンの「出口」の機能を担い、商売に繋がる。やがてこうした別バージョンが映画館にもかかるようになっていきます。当たるかどうか分からない新作映画よりも、既に知名度のある作品の方が動員に確実性があるからです。

もう一つは映画の制作体制がデジタルに移行し、フィルム時代に比べて編集作業が飛躍的に楽なものになった、ということですね。なにしろ昔は撮影ネガから焼いたポジフィルムを編集機にかけてああでもない、こうでもないと実際につないでその流れを試し、最終的にそのポジの端っこに映っているエッジナンバーというものを頼りに、ネガフィルムに立ち戻ってそれを繋ぐ。物理的に切った貼ったの世界ですから、とにかく大変なのです。それに一つのバージョンを作ってしまうと、オリジナル・ネガはそれ一本きりですから、まずそれの物理的コピーを作らないと別バージョンは存在し得ない。今は、撮影した素材を全部デジタルに変換してしまえば(というか、ほとんどの映画は撮影そのものが既にデジタル)、それらをコンピュータ上で扱えるわけで、細かい編集パターンをいくつも作り替えて比較することも容易、別バージョンも画質の劣化なく、いくつでも保存出来る。加えて、最終的な出口(劇場での上映であれ、DVD、Blu-rayである)も、もうフィルムでなくデジタル・データのままでいいわけです。

こうした別バージョンを作るプロセスの簡単さのゆえか、最近は映画館で公開されて間もない新作映画、例えばタランティーノの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』とかアリ・アスターの『ミッドサマー』とか、通常バージョンをまだ映画館でやってるうちに、長尺バージョンも並行して公開される、なんて事態も起こっています。映画会社としては、最初のバージョンがある程度当たって人気があると見るや、それを観たお客さんにもう一度来て貰おう、という作戦でしょうか。ここまで来ちゃうと、じゃあ「どっちが本来の姿なんだ?」とちょっと鼻白むところがありますね。ワイルダーが生きていたら、「壊れていないものがなんで2ついるんだ?」とでも言ってくれるでしょうか。

(イラストトレーション:100%ORANGE



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