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桜島


高千穂峰から桜島が見えた。

随分前に鹿児島へ旅行した時、フェリーの上から桜島を見た記憶がある。しかしそれがどこからどこへ行く便だったのか、忘れてしまった。覚えていることは、桜島の雄弁な姿と、ああこれがあの、というささやかな感嘆の記憶である。時に火山灰を噴き上げて、激しくも脅威的なそれとは想像もできない穏やかな姿だったように思う。

高千穂峰からバスで街まで降りる途中に見えた山は、昔の記憶と重なる要素がひとつも無かった。曇り空相まって、どこまでも淡く、水墨画のようだ。それがあの時と同じ桜島だと理解するまでにしばらくかかった。噴火口から煙が出ているようにも見える。

見る位置によって、同じものでも異なって見える。

そんな単純ながらも忘れがちな事実を、桜島に思い出させてもらったようだ。それはとても写真的な事実だ。立ち位置が数十センチ違えば、また、カメラを構える高さが変われば、写真は変わる。

そして写真だけでなく、あらゆる物事についても同じことが言えると思う。たとえば正義とか、善悪とか、愛とか。

僕たちは思い違いですれ違い、ネガティブ過ぎてあらゆるチャンスを逃しながら、ポジティブ過ぎてあらゆる記憶を忘却し続けている。小さくも大切なはずの記憶。(フェリがーどこへ発着したかというような)しかしそれは誰にとっての記憶だろう。接続しすぎても、動きすぎてもいけないけれど、動かなければならない。ポジ過ぎずネガ過ぎず、淡くも、確かに、あらゆる可能性に対してもっと自由に思考できたなら。


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