ポートレイトとファッション写真の境界
ファッション写真とポートレイト写真の境界はどこにあるのだろう。
話しの腰を折るようだが、境界なんてそもそも存在しないのかもしれない。
あるいは、境界を作ってしまうと、写真行為そのものがつまらないものに成ってしまうのかもしれない。
だけれど、境界を考えてみる。
まずファッション写真は、服を魅せるための写真であり、ポートレイト写真は人を魅せるための写真であると、簡単に定義できるだろう。
ファッション写真は、ファッションビジネスの上に成り立つものであり、服を売るために撮られる写真であると言うこともできる。
ポートレイト写真は、人物が写っている写真であり、フレームの中に人が入っていれさえすれば、全てポートレイトの範疇になる。
果たしてそうか。
もしもそうであれば、ファッション写真はポートレイト写真の範疇にあるということになる。
これはわかりやすい。
だが例えば、東京タワーを撮ろうとして、そこに小さく、全く知らない人物が、たまたま写り込んでいる場合、それをポートレイトと呼ぶことはできるだろうか。
最初の定義で言えば、それをポートレイトと呼ぶことは可能だ。
しかし、その写真をポートレイトとして発表したとして、鑑賞者は果たして理解し、楽しみ、プリントを所蔵したいと思うだろうか。
プリントを所蔵したいと思うほどの写真であれば、それにはポートレイトと定義されたこととは無関係の写真的価値が存在するのだろう。
その時には、そのようなジャンルの分類は既に消滅してしまっている。
まだ消滅させてはいけない。
分類を前提で話しを進めるなら、ポートレイトには上記以外の定義が必要とされる。
そこで一般に良く言われるのが「撮られている側が、撮られていると認識している写真」である。
しかしこの定義だと、ポートレイトの可能性を狭めてはいないか。
つまり街中で相手が気付かずに撮られたスナップ写真的ポートレイトは、ポートレイトに分類されないということになる。
実際、写真史上に、スナップ的手法で目線はレンズを見据えていない(被撮影側が撮られていると認識しているか判別の困難な)有名作品は数多く存在する。
「人物が写っている」ー「撮られる側が、撮られていると認識している」
この中間を行くような定義が、あるいは写真があるのでなないだろうか。
そこにオルタナティブな解となる、ファッション写真介入の可能性を僕はいつも夢想する。
ファッションポートレートという言葉も実際にあり、使っている写真家もいるが、そうではない。
ファッションとも、ポートレイトとも言いたくないとなると、それはもうスナップ写真でしかないのではないか。
全ての写真がスナップたるべきではないのか。
いつもそういう着地点に到達する。
ならば最初から、ジャンルの分類なんて無意味だと思えるが、その思考はふわふわと僕の中を漂い、ある時は浮遊したりある時は沈殿したりして、いつもそこにいる。
最近は、例えば女の子の写真を撮っている組写真(ストーリー)があるとして、ページをめくる度に、モデルとなっている娘の服が変わると萎える。
ファッション写真では、服を魅せるので、ページごとに服を変えるのが定説だ。(変えなければページに変化が出ないし、見栄えないので、変えなければならないと誰もが思い込んでいる)
つまり服が変わるということは、作り手の作意の過剰供給なのだ。商業主義的で、広告の下に成り立つ日本の低劣なクリエイションに鳥肌が立つほどの嫌悪感を覚える。
それが僕を萎えさせる要因となっている。
しかし、服が写っていなくて、服が変わらなければ、それはファッション写真では無くなってしまう。
さてどうしよう。
スナップに向かうしか道は無いのか、ファッションとポートレイトの中間を行く道がどこかにあるのか。
思考は今日も浮遊し続ける。
- 2017年のエッセイより
2017 ©tokimarutanaka
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