見出し画像

「あるある」からの脱却

今回のテーマ:ニューヨークあるある
by 河野 洋

ニューヨークに限らず「あるある」というのは裏を返せば、固定概念から解放されていないことが原因で、その土地の習慣に馴染めなかったり、異文化に違和感を感じている状態が続いていることの表れかと思う。未知の世界に触れた時、僕たちはある種の衝撃を受ける。そして、それを何度か体験することで、少しずつ認識が高まってくるわけだが、それでも当たり前にはなりきらない。故に「あるある」を連呼してしまう。

日本で生まれ育った僕が米国を体験した頃は驚きや発見の毎日だった。それらは日本人として日本の文化や習慣に慣れ親しみすぎた自分にとって受け入れがたいものもあったが、受け入れないと生活できないので、次第に米国文化にどっぷりと浸かるようになり、それが当たり前になり、「あるある」は姿を消していく。

ニューヨークに引っ越してきた当初はマンハッタンの通りには5番街を境にEast(東)とWest(西)の住所が存在することを知らず、xx East 50th Stという住所にたどり着くまでに、一生懸命xx West 50th Stを探したりしたことがあった。また、僕が住むクイーンズには単に30の通り名に、30 Avenue, 30 Street、30 Road、30 Driveと複数の似たような住所が、同じ地域で交差していて、慣れていないと迷子になる。これらは日本人にとってはよく「あるある」だろう。

もう一つ昔に体験した「あるある」は、相手が日本人かどうかがわからない時、日本語で話すことを躊躇してしまい、慣れない英語で汗をかきながら話したりしたこと。対面ならまだしも電話だと人種もわからないので、ますますかく汗の量が増えたものだ。

他にも、日本語と英語が会話の中でごちゃごちゃになる「あるある」もある。「それはMeがTake Careするから、Worryしないでね」など、日本語の文章に英語の名詞や動詞を織り込んでしまうパターンだ。米国生活が長くなってくると、逆に英語の文章に日本語を混ぜるようになる。先日、何十年も米国にお住いの日本人夫妻とお話したのだが、会話はほとんど英語で、日本語は片言しか出てこなかった。

ニューヨークの地下鉄でよくあるのが、真夏の暑い時、空いている車両がありラッキーと思い飛び乗ってみれば、その車両だけクーラーが入っていなかったり、同様に人が少ないと思って乗ってみると、鼻を鋭く突く、もう頭がクラクラするような悪臭を放つホームレスが体を伸ばし横になって、急いで飛び出たりというあるあるも珍しくない。後者は日本では考えにくい現象だろう。

お客様は神様です、の日本では考えられないのが、郵便局や銀行で「お客様」というコンセプトが全くないかのような扱いをする従業員たち。その昔、某楽器店に入って質問をしようと待っていたら、一人しかいない店員は電話で話を延々と続け、僕の存在を全く無視しているかのようなことがあり、腹が立ってきて電話をしている店員に文句をいったことがあったが、こうしたことも、もう全く気にならなくなった。

今は本当におおらかになったと言うか、全てを受け入れられるようになってきたように思う。この30年でアメリカの習慣が当たり前になったこともあるが、日本を離れ、本当にたくさんの人種や文化に触れてきたお陰で、相手の文化や人そのものに敬意を持つことができ、どんなことでも受け入れられる許容範囲が格段に大きくなったのだろう。

自分の中に「あるある」が存在する限り、本当の意味でのグローバリゼーションを達成しえない。「あるある」からの完全脱却を目指し、今日も新しい発見の探訪を続けたい。

2022年6月5日
文:河野洋

[プロフィール]
河野洋、名古屋市出身、'92年にNYへ移住、'03年「Mar Creation」設立、'12年「New York Japan CineFest」'21年に「Chicago Japan Film Collective」という日本映画祭を設立。米国日系新聞などでエッセー、音楽、映画記事を執筆。現在はアートコラボで詩も手がける。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?