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雑感#1「対話と性格的特性」

こんにちは。トイログ運営の小野です。

※この青山学院大学ワークショップデザイナー育成プログラムの卒業生有志によるアドベントカレンダーの1記事です(私も29期を卒業しました)。

今日は、最近の自分の中での重要な問いである「対話と性格特性」について書きます。

何か結論を見出したわけでもなく、学術的な裏付けもない、実験を行って事実をかき集めたわけでもない、生の状態の問いです。
構造化できていないため、散文になりますがご容赦ください。


最近の活動について

あまりワークショップデザイナーらしい活動に力を割けておらず、勤務先での仕事の一貫としての実施が中心ではありますが、いくつかの対話の場を設けたり参加したりしています。

・対話セッションTOIROGUE の主催
・自社内での半年間の対話共創プログラムの主催
・自社内での組織開発における対話の場の提供
・幾つかの地方自治体との対話への参画
・対話関連のサービスの企画開発(準備中)
・その他参加者として様々なWSに参加(ありがとうございます)

明確な目的を持った話し合いの場、ただ対話を楽しむ場、アクティビティの一部として対話が不随する場など様々です。
私は相も変わらず「社会構成主義」「自明性に気づく」「納得解」など、WSDで学んだ基礎の基礎の考え方が大好きで、偶発的に生まれる奇跡の瞬間を味わいたいがためにワークショップ(というか対話の場)を設けています。

対話の場における振る舞いと性格的特性

先日、とある対話に参加している時に、少し空気が固くなる場面がありました。

1つのテーマについて探求的な会話をしていたのですが、ある参加者(Aさん)が別の参加者(Bさん)の発言に対して「それはこういうことだ」と少し断定的に結論付けたことで、Bさんがそれ以降自分の考えをオープンに言葉にすることが難しくなってしまったのです。

このAさんの振る舞いの良し悪しについての議論は脇に置きます。
振る舞いの良し悪しは相対的なもので、場の目的によって真逆になったりしますので…。

とにもかくにも、こういったことはままあることだと思います。
ただ、この現象について振り返る時は、以下のようなことを考える方が多いのではないでしょうか?

・場の目的が明確になっていたか?
・対話の約束事が周知されていたか?
・その発言に至るまでの経緯にどのようなことがあったか?
・適切にファシリテーターが機能していたか?


私もWSDで学んだ身として、現象を生み出した「場そのもの」の問題点に注目しがちです。

ただ、この現象について考える時、その人物の性格的特性から分析的に考えることも非常に大切なことではないかと思います。

その人の性格的特性はその場の振る舞いに決定的な影響を与えていることはほぼ間違いありません。場の目的や約束事というのは副次的なものでしかないとすら感じることが多くあります。

はっきり言って、ワークショップにおいて参加者を分析的に見ることは好きではありませんでした。この人はこうだからこう、と見てしまうと、対話による予想し得ない発見に期待することが難しくなってしまうからです。
私の主義に反するものです。
しかし、後学として掘り下げてみる価値はありそうです。


頭出しだけ…


最近、FFS理論について勉強しています。

FFS理論とは、「ストレスと性格」の研究において開発されたものです。人が恣意的、無意識的に考え、行動するパターンを5因子で計量し、ストレス値においてポジティブな反応か、ネガティブな反応か分析します。その結果、その人が保有している潜在的な強みが客観的に分かります。
興味をお持ちの方はまず↓を読んでみてください。


残念ながら私もまだ学習駆け出しの身ですし、MBTIなどと同じくしっかりとライセンス管理されたものであるため、ここで理論について詳細を説明することはできません。

もっと学習を重ねて実践知が溜まってきたらその研究結果を公開しようと思います。

今回は許される範囲での頭出しとさせてください…

対話と性格的特性について考える切り口を挙げると、

・その人は物事を何で判断するか?(好きか嫌いか、正しいか誤りか等)
・その人は何にストレスを感じるか?
・その人はまず何に動かされるか?(正しいことをしたい、誰かのためになりたい、適切なことをしたい、面白いことをしたい、自己を保全したい等)

といったことがあります。

例えば、私自身は物事を好きか嫌いかで判断するようです。
厳格な価値基準があるわけでもなく、合理的な裏付けがあるわけでもありません。

そんな私と物事を合理的に判断する人が話をすると、相互の違いを認識できていない限り話が噛み合わないかもしれません。

また、私は物事を考える際、自分の立場や状況を維持改善することが根本的な動因になります。体系的な学習を好み、リスクを考えながら慎重にことを進めます。誰かのために手を尽くすこともありますが、出発点は自分自身です。極端な言い方をすると、自分に何かメリットがあるから相手に尽くすのです。

そんな私とは、挑戦的で未知なことでもすぐに取り組める人とは話が噛み合わないかもしれません。


こういった性格的特性を考慮すると、チーム編成によってある程度話し合いの経過や結果を予測することができます。

アイディエーションなど目的のある対話を行う場合には、誰と誰を組み合わせるかを科学的に考えることが有効に働くことは間違いなさそうです。

こういったことを全面的に考慮に入れて対話の場を作れるとしたら、面白いと思いませんか?


もう一つ、その人が今何を見ているか?

性格的特性とは別の話ですが、先日社内のとある部門の組織開発を請け負った際に、興味深いことに気づいたのでその話も。

良いところも悪いところもあるその部門において、マネージャーとメンバー全員が集まってチームが抱える課題について対話する場を設けました。

ダニエルキムの成長循環モデルを前提に敷き、問題について意見を戦わせるのではなく、まず関係性の質を高めることを狙いとしていました。

何がどうなったかはさておき、、、

同じテーブルについて同じテーマについて8名程が話し合っているにも関わらず、なかなか話が噛み合わない。
双方相手の言葉を受け止めて理解しようとし合っているのに、何となくの合意の後には「ああ、やっぱり伝わっていない…」みたいなすれ違いが露呈する。

といった状況でした。

よくよく話を聞いていると、

・チームの「結果」に関心が強い人は、その問題が引き起こした結果についてしか見ようとしない
・チームの「関係性」に関心が強い人は、その問題が引き起こした結果については興味がなく、その結果を引き起こした関係性の不具合しか見ようとしない

ということが分かりました。

このような、問題を捉える時にどの部分に着目するか?も、性格的特性が空現れたものだと思いますが、複雑な個性を見抜くよりも容易なアプローチかもしれません。


そんなこんなで、我々ワークショップデザイナーはもっと謙虚になった方がいいのかもしれない


ここまでタラタラと書きながら思ったことを、身もふたもないまとめとして最後に残します。

ワークショップ(というか対話の場)はとても楽しいです。

でも、なんだか少し慣れてきてしまっている。

こうした方が良い、こういう場合はこんな対処をしないといけない…といったメソッドが身に付けばつくほど、その場をコントロールしがちです。

しかし、苅宿先生の教えを今一度振り返ると、ワークショップの根底にあるのは唯一絶対の解はない、というものだったはず。

冒頭で例示したAさんとBさんの話も、私の常識で「Aさんダメだよそうやって断定しちゃ… 対話ってのはそもそもこういうことなんだから…」みたいにしてしまったとしたら、それはその場で言っていい発現を厳しく取り締まっているのと同じこと。

もっと謙虚に、初心に返った方がいいなと改めて思いました。

特に、私は「〇〇のためのワークショップ」といった目的がある場ではなく、純粋に対話そのものを楽しむ場を志向しているので、尚更です。

ワークショップデザイナーの常識に照らしてうまくいったかどうかを検証しても意味がありません。

場が紛糾したとしても、それに何らかの意味を感じてくれたのだとしたら、それでいいのだと思います。その意味を受けて何が起こるのかは、ワークショップデザイナーの窺い知るところではありません。

ワークショップの主役は参加してくれる方一人ひとりなのであるということを、改めて肝に銘じようと思った12月13日でした。

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