見出し画像

交換としての仕事、贈与としての仕事

頭が良くないくせに理屈っぽいので、いろんなことを考えては答えが出ずにもやもやしている。中でも、働きはじめてからずっと考えているのが「仕事とは何か」ということだ。


仕事はお金との関係で語られることが多い。衣食住に関わるモノや誰かが必要としているサービスを提供し、その対価としてお金をもらう。つまり仕事とは、モノやサービスを生み出す労働とお金との交換である。そんな理解がおそらく一般的ではないかと思う。そして、その交換が成立するためには、両者は「等価」でなければならない。


あるモノの価値は、それに費やされた労働によって決まるとマルクスは言った。仕事の受発注の場面で何度か「その金額では受けられない」という言葉を耳にしてきたが、それは、その案件にかかるであろう手間や時間と提示された金額とが、当人にとっては「等価ではない」という意味に他ならない。


仕事をこのように交換として捉えると、それは経済合理性に支配される。発注側はなるべく安い金額で最大限の成果を得ようとするし、逆に受注側は最小限の労力で最大限の報酬を得ようとする。そして両者は自分の値付けこそがフェアであり、「等価」であると主張し合うのだ。


その理屈はもちろんよくわかる。どんな企業も、利益を上げないことには経営が成り立たないのだから。でも一方で、ずっと、自分の中に納得しきれないものがあった。仕事は必ずお金に換算されるべきものなのだろうか。だとしたら、お金にならないものは仕事ではないのだろうか、と。


「トイビト」を立ち上げたとき、どうやってマネタイズするのかと何人かに聞かれた。仕事=交換の論理からすると当然なんだろうけど、自分にとってそれは最初にクリアすべき条件ではなかった。お金になろうとなるまいと、これになら間違いなく自分の全力をつぎ込める。そう思えることの方がはるかに重要で、だから、不安はあったけど、会社を辞めることに迷いはなかった。

あれから3年が経ち、赤字を垂れ流し続けながらも今思うのは、仕事の本質は交換ではなく、贈与ではないかということ。何かを得るために働くのではなく、何かを与えるために働くということだ。


交換としての仕事は、その対価によって計られる。この世に一人しかいない自分の働きはお金という量に換算され、複製&代替可能な「商品」になる。そこでは人格が消し去られ、お金と商品だけがやり取りされる。それに対し、贈与としての仕事には人間が関わり続ける。その仕事は自分の意思を燃料とし、その価値は誰かが受け取ってくれたときに初めて決まる。そこに人と人のつながりが生まれる。

ただし、交換としての仕事も、贈与としての仕事も、純粋なカタチで存在するわけではない。実際の仕事において両者はない交ぜになっている。企画書に、要件にはないちょっとした提案を入れ込むこと、常連のお客さんに「おまけ」をすること、チームの仲間や取引相手に心からの感謝を伝えること。それらは交換としての仕事における贈与性だといえるだろう。

アインシュタインの言葉に「人の価値は、彼がどれだけのものを得られるかではなく、どれだけのものを与えられるかで見るべきだ」というものがある。これを卑近に言い換えるなら「人は一人では生きられない」ということではないだろうか。すべての仕事は他者を必要とする。その他者は、私に指示を出すからでも、報酬をもたらすからではなく、私の仕事を「贈りもの」として受け取ってくれるからこそ必要なのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?