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「自分らしく」なるために。

学生の頃、「そういう子どもっぽい考えは社会では通用しないぞ」と言われたことがある。その言葉の意味を僕は何度も咀嚼した。しかし、ついぞ今の今まで飲み込めてはいない。

この世界、というと大げさだが、「新人らしく」だの「若者らしい」だのと曖昧な言葉が多すぎる。そのくせ、言った本人はその言葉を自身では咀嚼せずにただ「常識」として強要してくる。

おおかた「自分も若い頃に同じことを言われたから」と相手を思って言っているのだろう。そこに悪意はない。し、社会人としてどう振舞えばいいのかわからない新人にとっては指針となるありがたい言葉になるだろう。

でも自分は違った。考えが新人離れしているとか、反抗しているとかではない。純粋に考え方の問題だと思う。

『私語をするな、口答えするな、元気に振舞え、なんでも素直に聞き入れろetc……』

それらすべてに、なんで?が先に来てしまうのだ。

仕事は楽しいに越したことはないし、一人でやるよりもアイデアの幅もモチベーションも断然上がる。無理して周りを心配させるよりも、しんどい時はしんどいって言って助けてもらう方がいい。なぜこれまでとは違う新しいものを生み出したいのに、これまでと同じやり方でしようとするのか。

自分の中ですべてに疑問符が浮かぶ。

なんでも自分に都合の良い考え方で落ち着いてしまう、もしかするとこの考え方は根本から間違っているのかもしれない。と、初めはずっと悩んでいた。個性ではなく、異端なのではないかと思っていた。

それでも、幸い自分は周りの人に恵まれていて、救われたおかげで今の自分には迷いが一切なくなった。

きっと自分が間違った道に進みそうになったら殴ってでも、首根っこ掴んででも引き戻してくれる人たちがいる。心からそう思えるのだ。

だから、「大人」が言いにくいことを代わりに言える「子ども」の役割を僕が適材適所で担えばいい。そう考えるようになった。

「社会人らしく」はなれないけれど、「自分らしく」はありたい。そうすれば自ずと良い方向に物事は進んでいく。

おそらく僕は「らしさ」のない新人として認識されていき、時には不穏分子にもなりうるかもしれない。

それでも僕には自己理解という大きな武器があるのだ。その武器でこれまでの常識を壊す勢いで社会に正面から切り込んでいく。

その決意として僕は、学生時代から咀嚼し続けていた教授の言葉を飲み込まずに思いきり地面に吐きつけた。


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