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余白探求のはじまり

一体、「余白」とは何なのか。

皆さんは余白と聞いて、真っ先に何を連想するだろう。

普段仕事や趣味で絵を描いていたり、写真を撮ることの多い人は、平面や空間上の、何も描かれていない、または物が置かれていない場所のことを連想するようだけど、それ以外の人達の多くは「時間的なゆとりや余裕」を連想するらしい。

これを僕は「時間の余白」と呼んでいるのだけど、例えば数十年前までは銀行の窓口に並んで手続きをしなければできなかったお金の移動も、今となってはコンビニのATMでいつでも現金を引き出せて、スマホさえあればどこでも手軽に家賃の振込みや個人間の送金が可能となっているように、昔に比べて1つの目的を果たすために必要となる時間や労力はあらゆる分野において大幅に減っていて、その分現代人は圧倒的な時間の余白を手に入れたと言えると思う。

しかし、時間の余白を渇望する人がこれほどまでに多いのは何故なのだろう。

それはきっと

「やらなくていいことをやり過ぎている、またはやらされている」

ということが原因なのではないかと僕は考えている。


僕は元々、何をやるにも時間がかかり、物覚えも要領も悪い人間で、おまけに世間知らずで人より多くの知識が劣っていることにある種のコンプレックスを抱いていた。

20代前半まではこのことを特に気に留めていなかったけど、ある時期を境に、いわゆる「できる人」たちと沢山出会うようになってから、周りと比べて自分に劣等感を持つようになった。

“彼らと肩を並べたい”

そんな焦燥感に駆られ、身の丈を省みないまま色んなものに手を出してみたり、博識ぶって自分を大きく見せてしまったことも今振り返れば沢山あったように思う。

26歳の時に関東で東日本大震災を体験し、そこからは周囲と比較することをやめて、自分にとっての理想を、自分のペースで少しずつ積み上げていくようになり、10年の時を経てその道がやがて余白探求への道に繋がってきたように思う。

僕がこの10年でやってきたこと、それこそが「やらなくていいことを手放し、暮らしにゆとりを生み出す」ということだった。


震災以降は、今まで特に意識してこなかった「家計の収支」をつぶさに監視するようになり、月に何時間働いて、いくら稼いで、どこで何にいくら使ったかを記録するようになった。

そうすると今まで見えていなかった沢山の「無駄」が見えてきて、それをひとつずつ丁寧に潰していくことで、「時間の余白」が拡がっていくことに気付かされた。

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