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欲しいものは

 大学に入学して、初めて恋をした。


 今まで何人かとはなんとなくそういう関係になったことはあったし、その時も「好きだよ」なんて口にしてはいたけれど、それが全部真似事でしかなかったと気付かされた。そう思うくらい、僕は落ちてしまった。


 好きになったのは同じサークルの先輩。優しくて面倒見がよくて、でもどこか子供っぽくて。近所のお兄さんみたいな彼に、僕はときめいてしまった。僕たちは同じ学生寮で部屋も近かったこともあり、先輩は特に僕を可愛がってくれた。もちろん先輩として。寂しいけど嬉しい。先輩に会うと幸福感で胸がいっぱいになるし、会っていない時も気付けば先輩のことを考えている。まるで麻薬だ。麻薬のような人。僕はすっかり先輩の中毒患者になっていた。


 だけど僕は先輩に思いを伝えることはない。だって先輩はもう四回生。一回生の僕と在学期間が重なるのはたったの一年間だけだ。先輩は優秀な人だから、きっと留年することもないだろう。最近は就活の愚痴なんかも聞かされていたから、大学院へ進むこともない。だから言わない。どうせすぐに別れが来るんだから、今のままの関係を崩さず楽しい一年間を享受したいと思う。


 思っていた。でも、だめだった。


 季節が廻り、また新しい春が芽吹き始めている頃。先輩の引っ越しが決まった。就職先の会社がある東京に家を決めたという。その頃になると僕は何となく先輩と上手く話せなくなっていた。自分でも子供だと思う。ただ寂しくて「行かないでください」って言えばいいだけなのに、先輩に会うとついつれない態度をとってしまう。先ほども廊下ですれ違ったが、挨拶もそこそこに逃げ出すよう自分の部屋へと戻ってしまった。バカみたいだ。もう本当にあと少ししかないのに。なんで素直になれないんだろう。

 枕に顔をうずめて嘆いていると、テーブルの上に置いていたスマホのバイブがぶぶぶと鳴った。起き上がって確認してみると、先輩からのLINEだった。胸の奥からじわっと甘い何かが湧き出てくるような気がした。


『引っ越しの荷造りしてたらいらない家具とか家電とかたくさん出てきたからよかったらいるか? 捨てるのももったいないし、好きなのやるから今から俺の部屋こいよ』


 少しだけ考えて、すぐに返事をした。部屋着を着替えた方がいいだろうか。いや、さっき会ったんだから着替えてたら変だろう。あぁ。もう。とにかく行こう。早く先輩に会いたい。僕は慌てて自分の部屋を飛び出した。


            ◇


「じゃあこの椅子と本棚と……このマットレスも貰っていいですか?」

「いいけど、それさすがに古いから捨てようと思ってたやつなんだけど大丈夫か?」


 「大丈夫です」と僕が言うと、先輩は「そうか」と笑った。先輩の部屋はほとんど片付けが終わっていて、段ボールだらけだった。サークルが終わった後、何度もこの部屋で飲み会をした。二人だけでご飯を食べたこともあった。もう遠い昔のことのようで、胸がチクリと痛む。余計な感情を振り払うように僕は口を開いた。


「先輩、部屋汚かったけど、ちゃんとやればできるんですねぇ」

「うるせぇな。人が来るときはいつもきれいにしてたろうが」

「僕がいるときは散らかってましたけど」

「お前はいいんだよ別に」


 適当な扱いを受けて僕は「なんですかそれ」と眉を歪めて笑った。けれど内心ドキドキしていた。先輩が他の人には見せない部分を自分に出してくれているのかと思うと、嬉しかった。嬉しかったけれど、その分だけ辛くなる。吐きそうなぐらい苦しい。


「もうすぐお別れですねぇ」思わず口にしてしまった。

「そうだな」あっさりと返され、また苦しくなる。


「――――ちょっとだけ、怖くなるよ」


 先輩は、ポツリとそう言った。顔を上げて先輩の顔を見ると、その瞳はどこか遠くを見つめている。


「怖くなるんだよな。もうすぐ今までの生活が終わって、何もかもが変わる。俺は俺の人生を、まっすぐ歩かなきゃいけない。そう思うと、ゾッとするよ。俺、このままずっとお前たちとバカみたいに酒飲んで笑ってたい。ずっとずっとこのまま」

「………何言ってるんですか、先輩らしくもない」


 僕が思わずそう言うと、先輩ははっとしたように僕を見て笑った。


「そうだな、そうだよな。いやいやすまんすまん、忘れてくれ。それよりどうだ? もう欲しいものはないか?」


 さっきまでの淀んだ瞳はどこにもない、いつもの爽やかな先輩の笑顔。もしかして僕は、今まで先輩の表側しか見てなかったのかもしれない。いつも明るくて優しい先輩の中にも、深くて薄暗い気持ちが堆積しているのかもしれない。そして今、僕はそんな先輩のSOSを無自覚にはねのけてしまったのかもしれない。


「僕、先輩が欲しいです」

「あ?」


 思わず口をついた言葉に、先輩も僕自身も目を丸くした。言ってしまった。でも、訂正しようとは思わなかった。


「そりゃあ、変わってしまうことは多いかもしれません。でも、変わらないことだってありますよ。僕はずっと先輩が好きでした。ずっとずっと、これからもそれはきっと変わりません。絶対変わりません。だから、先輩をください。僕は先輩が欲しいです」

「…………………」


 僕の顔を見て冗談ではないと察したのか、先輩は何も言わなかった。やばい。勢いで意味不明な告白をしてしまった。後悔が津波のように僕を襲う。なんてことを言ってしまったんだ僕は。何も言わないままだったら、一生先輩後輩としてたまに連絡を取り合うくらいできたのに。縁を切られてしまう。終わってしまう。僕は、なんてバカなことを


「わかった」

「…………へ」

「お前がそういう風に思ってたなんてな。はは、いいよ。くれてやるよ」


 先輩は真っすぐに僕を見つめて笑った。言葉の意味を理解するのに、数秒を要した。え。え、え。え。え。えええ。


 あっさりと、僕は先輩を手に入れた。


          ◇


 その日の夜は興奮して眠れなかった。まさかOKをもらえるなんて思ってなかった。奇跡だった。一瞬の気の迷いだろうか。将来への不安から思わず口走ってしまったんだろうか。明日にはやっぱりナシで、なんてメッセが届くかもしれない。怖い。けれど嬉しい。なんだか人の弱みに付け込んだみたいになってしまったが、結果オーライだ。弱み最高。そんなことをうだうだ考えているうちに眠ってしまった。


 起きたらもう昼過ぎだった。寝すぎて頭が痛い。なんだか幸せな夢をみていた気がする。しばらくぼけーっとして、ハッとして枕元に置いていたスマホを見た。

 先輩からのLINEが届いていた。三時間も前に受信している。慌ててアプリを起動させる。


『おはよ。昨日言ってた家具とか、部屋の前に置いといたから。相変わらずいびきうるせーなお前(笑)おばちゃんに見つかる前に部屋入れとけよ』


 あぁ。夢じゃなかった。昨日のあれはすべて本当だったんだ。じゃあ、先輩と恋人同士になれたってことだよな。ことだよな。そこだけ夢や妄想でしたってオチではないよな。ないはずだ。


 部屋のドアを開けると、すぐ横に昨日先輩に欲しいと言った家具がきれいに並べて置かれていた。たぶん部屋に運ぼうとして僕のいびきが聞こえて起こさないようにって置いていったんだろう。相変わらず優しい。だから好き。大好きだ。恥ずかしげもなくそう思う。


 とりあえず家具を部屋に運ぼう。このままにしているとすぐに管理人のおばちゃんに見つかってくどくど文句を言われてしまう。椅子。本棚。マットレス。……あれ。


 ひとつ、頼んでないものが置いてあった。段ボール箱。かなり大きい。例えるなら人一人が、すっぽり収まるくらい大きな――――


「先輩!?」


 まさかと思って段ボールを開けると、中には大きなテディベアが入っていた。なんだ。てっきり先輩が僕を驚かそうと中に入っているのだと思った。でもなんだこれ。こんな大きなテディベア、これも先輩が置いていったのだろうか。まさかこれ、僕へのプレゼント? 男子大学生に贈るにはいささか可愛らしすぎる気がする。多分ネタだろう。でも嬉しい。先輩が僕のために考えて買ってくれたものだと思うと、どんなものでも愛しく思えた。


『先輩おはようございます! いびきうるさいなんてひど(笑)

家具ありがとうございます。大事に使わせてもらいますね。あとなんかでっかいクマちゃんいましたけど、それもありがとうございます。先輩だと思って大切にしますね(笑)』


 すぐにお礼のLINEを送った。まだ敬語だけど、これからだんだん恋人同士らしい言葉遣いになっていくのだろうか。先輩は変化を恐れていたけれど、僕は変わっていく僕たちの関係が嬉しい。



 それから二週間。先輩からの返信はない。


 あのテディベアからは異臭が立ち込め、大量のハエが群がっている。



 怖くて、今もその中身を確かめる気にはならない。

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