太陽をうつすもの

 バイト先の居酒屋から自転車で十分のコンビニの前で、杏沙(あずさ)は煙草に火を点けた。携帯をスリープモードから叩き起こすと、ちょうどポップアップが画面に浮き上がり、最近仲のいいサークルの先輩の名前と、デートのお誘いらしき文面の最初の一文がのっぺらぼうなゴシック体で表示されたところだった。煙を肺まで吸い込んで、ゆっくりと息を吐き出してから既読を付ける。「いいですね」と、エクスクラメーションと絵文字付きの返信を送って、肩からずり落ちて来た鞄を担ぎなおす。
 深夜零時を回った町を照らすのは、コンビニの電灯とときおり通り過ぎる車のライト、そして杏沙の右手の煙草の火種だけだった。繁華街から離れた静かなベッドタウンの片隅で、今頃は明るい部屋でベッドの上に転がっているのであろう先輩と会話を繋げ、「先輩のおススメのところがいいです」と文字を打って、煙を飲み込む。ごろごろと寛ぎながら両手で携帯を弄っている相手の姿は杏沙の方にはありありと目に浮かぶのに、向こうは杏沙のこんな姿を想像すらしないだろうということは、杏沙の着ている白いワンピースとフィルターまで白い煙草の抱く非対称性の現れそのものだ。バイト代は、服とアクセサリーと化粧品、それから遊びに行くためのお金で毎月ぎりぎりで、そこからどうにか探り当てた小さな隙間で煙草を月に二箱買っている。ボックスの煙草と百円ライターは、雑貨屋で売っているかわいい化粧ポーチで、いまどきの女の子がお気に入りにしている三万円の鞄の一部に擬態させて持ち運んだ。深夜零時と十五分、チークはだいぶ落ちてしまって、暗闇でなければきっと血色の悪く見えた女子大生がひとり、コンビニの入り口前の灰皿で煙草を消した。
 手癖で二本目を取り出して唇に咥え、先ほどポケットにぞんざいに突っ込んだライターを左手で探る。コンビニの横を走る二車線道路を、また自動車が一台通り過ぎた。聴きなれたメロディとともに自動ドアが開き、手を繋いだカップルが白い袋を提げて店を立ち去っていく。夜中のコンビニは、まるで世界が違うかのようにその箱の中だけが煌々と明るい。ハンカチの裏に隠れてしまったライターを引っ張り出して、親指で着火ボタンを強く押し下げる。家からも大学からもそれなりの距離があるこのコンビニは、灰皿の横にベンチこそないものの、知り合いと鉢合わせることもなく、学生街の喧騒からもたしかに遠い、杏沙だけのお気に入りだった。朝は完璧に作り上げていた化粧が崩れて、しっかりとアイロンをかけた服が皺になってしまったこともわからないような暗い夜の隅っこ。そこで、隠れるようにして煙を飲み込んでいる。
 ゆるりと体中をめぐるニコチンが凝り固まった脳の神経を解していく感覚に、大きく息を吐く。先輩からのメッセージは既に具体的な日程を決める話に移っていたけれど、手帳を忘れたから家に帰ったらまた連絡すると嘘を吐いた。いま、こうやってやり取りをしているサークルの先輩も、毎週のように遊んでいる同期も、学部の友だちも、バイト先の友人や先輩や後輩も、親も兄弟も、自分がいまこんなことをしているということを、きっと欠片も知らないだろうという事実が、杏沙には心地よかった。ほめられたことだとは思わないけれど、とっくに二十歳にもなったのだから決して間違ったことではない。けれど、ふわふわした女の子らしい女の子が好きな先輩だとか、十八から酒は飲んでいるくせに煙草に関しては嫌悪を隠しもしないような真っ当な友人たちには、きっと受け入れられやしない行為であるということもわかっている。失望されることを望んでいるわけではないし、白い目で見られることや陰口を叩かれることが嫌な程度には彼らのことをどうでもいいとは思えていない。だから、こんなふうに夜中のコンビニでしか、リボンのついた化粧ポーチの中身を取り出すこともできない。
「  杏沙さん?」
 声が聞こえたとき、比喩ではなく心臓が跳ねた。この空間で自分の名前を呼ばれるということは、杏沙がなによりも恐れていて、それでいてその可能性には目をつぶっていたことでもあった。思わず喉の奥まで煙を吸い込んで、慌てて口から煙草をはなし、軽く数回咳き込んだ。自分の名前を呼んだ声が後ろにいて、杏沙の姿を見ているという事実に汗が流れる。その一瞬では振り返る勇気を持てなかった杏沙の目の前に、彼は向こうから姿を現した。驚きを瞳に浮かべた表情が、コンビニの電灯に照らされて、しっかりと杏沙に向けられる。背の高い青年は、一瞬ためらったように言葉を飲み込んだあと、微笑んで、「偶然ですね」と杏沙に言った。
「松浦くん」
 現実感もなくぼんやりと名前を呼んだ杏沙に、青年はまた少し頭を下げて「お疲れさまです」と言った。松浦と呼ばれた彼は、数週間前から杏沙のバイト先で働き出した年下の大学生で、毎晩出勤するたび、背筋をまっすぐ伸ばしていちど立ち止まり、「お疲れさまです」としっかり言ってから頭を下げる筋金入りの好青年だ。返事は「はい」とはっきり発音するし、笑顔でどんな相手にも話しかけに行き楽しそうに会話に加わるし、ミスをすれば言い訳ひとつせず頭を下げて、指導や指摘はすべてメモを取る。好意を持つことしか許さないとでも言いたげなほどに完成された彼の性格と言動は、だれの頭の中にも松浦という人間について、恐ろしいまでにまったく同じ印象を残している。そういう男だ。
「杏沙さんは、今日もシフトだったんですか」
「うん、五時から。松浦くんとは最近よく被るね」
「そうですね。いつもいろいろありがとうございます」
「仕事覚えるのがはやくて、すごいなって思ってるよ」
 意外にも、杏沙の右手には言及することなくたわいもない話をもちかけた松浦に、少し面食らいつつ、適当な言葉を返してまた右手を灰皿に運ぶ。煙草の先から灰を落とす動作を松浦はじっと見つめていて、その視線を意識してしまうと心臓の鼓動はまだおさまりきらない。煙草なんてものと、一番共通点を持たなそうな男が目の前にいて、いままでだれにも見せたことのなかった姿をまじまじと見られている。そこまで考えて、杏沙自身もまた、煙草なんてものとはなんの接点もなさそうな女であったことを思い出して自嘲した。杏沙に声をかけた瞬間、たしかに松浦は目を丸くしていたのだから。
「煙草、吸うの意外ですね」
 たっぷりと間を置いたあと、松浦はようやくその言葉を口にした。
「やっぱりそう思う?」
「あんまり、そういうタイプのひとには見えなかったです」
「まあ、だよね」
「むしろ、煙草を吸う男を嫌ってそうなイメージあります」
「ああ、なるほど」
 もはや取り繕うのも面倒になって、松浦の言葉には普段の何トーンも低い声でぞんざいに返事をした。他の人には黙っておいてね、と釘をさす必要があるだろうか。彼ひとりにどう思われてもいまさら構わないけれど、友人関係も、自分の立ち位置や印象も、だれだってそれなりに頑張って築きあげてきているわけで、それがこんなひと箱四百二十円の娯楽に崩されてしまうのは、あまりに理不尽だと思う。そういうものだと、わかっているつもりではあったけれど。
「でも、意外と似合いますね、杏沙さん」
 だから、松浦がそう言って微笑んだときには、煙草を見つかったときと同じくらいに動揺した。「体に悪いですよ」くらいの非難は少なくとも与えられるものだと思っていたし、一瞬くらい、眉を顰めるものだと、彼はそういう人間だと杏沙は確信していた。こんなふうにあっさりと受容されるということを想像もしていなかった。
「そう言われることが、意外だったな」
「どういう意味ですか?」
「松浦くんは、煙草を吸う女にいい顔しなそうだなって思ってたから」
 松浦は杏沙のその言葉を否定も肯定もしないまま、杏沙が短くなった煙草に口を付け、煙を吸い込んでから吸殻を灰皿に投げ入れるまでを、口元に笑みを浮かべて眺めていた。
 バイクが走り去る音が二人の鼓膜を揺らし、一瞬だけ、音の余韻を縫い合わせるように静寂が波を作った。会話が姿を消しても、松浦は歩き出そうとはせず、杏沙も彼の前から立ち去ることができなかった。髪に残った煙の匂いだけが、いつだって杏沙の中ではたったひとつのほんもので、松浦は杏沙の隣に立って、その匂いを知っている。
「  試してみる?」
 そう言ったのも、彼の目の前にボックスを差し出したのも、理由などひとつも必要としない行動だった。松浦の目が一瞬杏沙を見遣る。暗闇ではうまく色の窺えない光彩は、それでも揺蕩うように優しく冷えた温度を湛えている。松浦は手を伸ばし、長い指で一本を箱の中から抜き取った。なにも言わずに唇にフィルターを咥えた彼の口元に、小さな火種を向ける。
「そのまま、息を吸って」と言った杏沙の声は、呟くように二人のあいだに響く。
 松浦が咥えた煙草の先が赤く灯った瞬間、自分の内側にあったあらゆるものが、いつのまにか押し寄せて来た水に呑まれていくような強烈な衝動に喉の奥が揺らされて、火を消したライターを持つ左手が小さく震えた。だれもが正しいと知っている男の肺に、白く淀んだ煙を送り込むというその事実が、杏沙の背中と喉を震わせた。ふつふつと湧き上がったものが、頸動脈に流れ込んで心臓の鼓動を飲み込んで、ひとつひとつとペースを増していく。それは実のところ、杏沙にとってはずっと昔からよく知った感覚だった。
 不器用に煙を吸い込む松浦が、数度咳き込んで困ったように笑い、杏沙を見遣る。松浦の瞳は、その奥に冷たい湖を湛えていた。煙草の匂いと、それを押し込めたリボンのついたポーチと、白いワンピース、ピアスとブランド物の鞄。全部水底へと飲み込んで、正しく穏やかに凪ぐ透明な水面。
「松浦くんも、意外と似合うね」と杏沙は言った。
「そうですか?」と目を細め、松浦はまた笑った。
 二年ぶりの衝動に背骨を両手で掴まれて、杏沙は身震いをする。ライターを手放した左手が、この男を描きたいと手の甲から脈打って、どうしようもなく行き場を失った。
*

 松浦という人間は、自分が正しいということを知っているのではないか、とあの夜以来杏沙は折に触れて思うようになっていた。小さな居酒屋で、明るく朗らかに生ビールを運び、ありとあらゆる人間に真摯なまなざしを向けて接する彼の横顔と、コンビニで杏沙をみたあのときの表情とには、別人のようだというほどではないけれど、しかし無視することのできない差異がある。たしかに悪意を一ミリたりとも感じることのできない笑顔を彼は持っていて、松浦を知るだれもかれもが口をそろえて、「好青年だ」と同じ単語を彼に与える。
「杏沙さん、今日雰囲気違いますね。あ、髪切りました?」
 杏沙が出勤するなり、笑顔で挨拶をした松浦は、その後一番にそう言った。「よく気付いたね、ちょっとだけだよ」と返した杏沙に、臆面もなく「そっちのが似合いますね」と言ってのけた松浦は、杏沙だけでなく、だれにでもそういうことができる男だ。かといって男同士の付き合いをおろそかにしているわけでもないようで、異性からも同性からも、先輩からも同期からも評価は高い。彼が理想的過ぎるがゆえに陰口を叩くような一部の人間にすら、松浦は笑顔を絶やさなかったし、他のだれに対しても同じように礼儀を尽くしていた。
「杏沙、あのさ、今週の土曜日ヒマ? タケちゃん先輩がドライブ連れってってくれるらしいんだけど行かない?」
「え、行きたい。だれ来るの?」
「やったね。えっと、いま決まってるのが、私と、弥生と、ささっぺさんかな。ささっぺさんが杏沙に会いたがってたよ」
「ほんとう? やった、全力でお洒落してこ」
「おっけ、そしたらあとでラインするね」
「うん、わかった。ありがとう」
 松浦の次に杏沙に話しかけてきたのは同じサークルのバイト仲間で、彼女とシフトが被るたびに、遊びの予定でスケジュールを埋めていくのはいつものことだ。ドライブ、カフェめぐり、映画、ショッピング、カラオケ、飲み会。なにも予定のない日はどんどん埋められて、毎日いつでもだれかと一緒に居る生活を、気付けばもう二年も続けている。二年も続くものだということに、杏沙自身が感嘆していた。
「そういえば、ささっぺさんってまだ由美さんと続いてるの?」
「あれ、杏沙もしかして、あの二人先月別れたの知らない?」
「えっ、初耳なんだけど。情弱じゃん私」
「まあ、結構知らない人多いみたいだけど。私も先週知った」
「教えてくれたらよかったのに」
「知ってると思ってた。杏沙わりといつも情報早いじゃん」
「そんなことないよ、神山とみーちゃんが付き合ったのも最近知ったし」
「あー、あれもびっくりだったねえ。みーちゃん趣味意外すぎた」
「思った。でもなんだかんだ仲良さそうだよね」
 テンポよく会話を続ける術も、会話の流れを途切れさせずに違う話題を持ち込む方法も、気付けばもともと知っていたかのように杏沙は体得していたし、そこに不自由を感じたことは意外となかった。従業員用のロッカーを開けて制服を取り出し、それを服の上から羽織りながら、杏沙は友人の横顔を眺めた。ミディアムボブの茶髪を毛先でくるくると巻いて、マスカラで睫毛をしっかりと上げ、カラーコンタクトを手放さない同い年の彼女は、聞けば高校の頃からずっとそんなふうに生きて来たらしい。杏沙ですら、彼女のすっぴんを見たことはなかった。お風呂に入ったあとでさえ、眉を描いて薄くメイクをすることは忘れない、そういう人間と自分が同じところにいることに、いまでもときおり不思議な気分になる。
 彼女が杏沙の横から一歩前に出て、スタッフルームの扉に手をかけたとき、微かにバニラの匂いがした。そういえば、このあいだネットで宣伝されていた、お気に入りのブランドの新しい香水瓶はかわいかった、と思いつつ、杏沙もそのあとに続いた。
*

「杏沙さんは、なんで吸い始めたんですか。単純な興味なんですけど」
 松浦がそう杏沙に切り出したのは、煙草に火を点けて一口目を吸い込む松浦の手つきが、だいぶ様になってきた頃のことだった。松浦が煙を飲み込むたび、杏沙の左手は震える。呼吸が引きつりそうになるのを押さえつけながら、杏沙は一度煙で言葉を喉の奥に押し戻し、それからまたゆっくりと吐き出した。
「自分じゃないものになるのは、うまくいかないなって思ったから」
 それは、半分嘘で、もう半分はきっと正しい。今の自分が自分でないと言い切ることはできないけれど、かつてそうであった自分とは違うということは本当だ。今と昔と、その二つの生き方はたしかに排反で、同時に選ぶことは、どうしたってできない。だから、片方を過去に投げやって、ふわふわした服を着て、メイクでばっちり武装して、指を何度折っても数えきれない数の友だちと笑っている。
「どうして、自分じゃないものになんてなろうと思ったんですか」
 膝丈のワンピースも、ブランド物の鞄もパステルカラーのパンプスも、雑誌で流行のメイクや髪型も、ちょっと前までは知らなかったし、自分には必要ないものだと思っていた。絶対と呼べるものがあった頃のことは、いまでもときおり思い出すし、煙草に手を出したのも、きっとその憧憬を忘れるためだ。寂しかったのは口でも喉でもなくて、なにかを握ることがめっきり減った左手だった。
「絵を、描いてたの。大学に入るまで、ずっと」
 油絵の具の匂いは、いまでも思い出せる。描きたいものは、いくらでもあった。よれたTシャツと、ファンデーションも知らない肌と安い眼鏡と伸ばしっぱなしの髪で、何時間だって部屋に閉じこもっていたのが、あの頃の杏沙の青春のすべてだった。
「過去形なんですか?」
「うん、そうだよ。もう描かない」
「どうして?」
「勇気がなかったの。いまも、ないし、これから先、ずっとない」
 松浦は、杏沙の答えには言葉を返さなかった。「そうなんですか」と呟いて灰を落とし、そのまま沈黙を湛える。
 ずっと絵を描いて生きてきたのはたしかだというのに、描かなければ生きていけないと胸を張って言うことは、年齢を重ねるごとにできなくなっていったし、あの頃見ていた、たしかに描こうとしていたなにか美しいものが、自分が生きていくのにどうしても必要なのだと言い切ることも、いつのまにかできなくなってしまった。大人になることがなにかを諦めることだというのなら、杏沙が諦めたのは憧憬とその表象で、だというのに、いまでも大人にはなりたくないだなんて顔をしながら毎日を過ごしている。
 十八歳の春に、大学の合格発表に足を運んだときのことはきっと一生忘れられない。ここでかわいい服を着て完璧なメイクをして、トーンの高い明るい声で会話をしているひとたちは、それを当たり前だと思って生きているのだということを目の当たりにして、自分も一か月後にはこの場所で、このコミュニティで過ごしていかなければならないのだということが途端に恐ろしくなったのだ。初めて美容院を自分で予約して、髪を切って流行の色に染めてパーマをかけて、雑誌で見たメイクを何度も試して、新宿の街を歩く女の子たちと同じ服を着てみたら、自分で思ったよりも杏沙はそういう現実に調和できる姿になっていたし、周りのひとはみんな驚いたあとに褒めて喜んでくれたから、そうやって生きていくことを決めた。友だちもできたし、彼氏もできた。原宿で並んで食べたパンケーキだって、まあそこそこ美味しかった。
 絵を描くために持ち続けられなかったのは、そういうどこにでも転がっている当たり前の現実と生活を、くだらないと切り捨ててしまう勇気だった。
「もう、描きたいとは思わないんですか」
「思わないわけないよ。いまだって、思ってる」
 松浦くんを見ると、という言葉を杏沙は飲み込んだ。描かなければならないものがあるという衝動は実のところずっと忘れていて、杏沙が望んだ当たり前の現実に押しやられていた。それを杏沙に思い出させたのがこの男だった。白いシャツとグレーのスラックスというどうにも非の打ちどころのない優等生じみた服装で、背筋を伸ばして、左手の指のあいだに火のついた煙草を挟んだ背の高い青年。彼が、煙草を吸うという事実そのものが、そしてそれを教えたのが杏沙自身だということが、杏沙の心臓を握っている。
 松浦は、杏沙が彼に向ける視線を当たり前のように受け止めていた。それが、彼にとってのすべての現実であるかのように。杏沙がどんな目で彼を見て、どれだけその衝動を抑え込もうと呼吸を潜めても、松浦の瞳の向こう側にある透明な水面は静かに凪いだままだ。
「松浦くんは、なんで、あのとき吸おうと思ったの?」
「杏沙さんが、俺に吸ってほしいんだなって思ったから」
 完璧な間をおいてそう答えた彼は、少し目を細めて微笑み、短くなった煙草に口付けた。
「それは口説いてるつもり?」
 杏沙も笑って、煙草を咥える。松浦は隣で肩を揺らした。
「まさか。そんなの杏沙さんがいちばんわかってるでしょう」
「うん、そうだね」
 彼が自分の運命だとは思わない。運命を描くことはできないけれど、彼自身がだれかに描かれるということはきっと運命だ。それが杏沙であることはきっと必然ではなくて、だからこそ、描かなければいけないと思うことは傲慢だ。けれど、その傲慢すら許されたくなるほどに、彼はそういうものだった。あまりに当たり前に、絵に描かれようとするもの。
「ねえ、モデルかなにか、やってたことある?」
「  どうしてですか?」
「なんと、なく」
 とっくの昔に手放したはずの油絵の具の匂いが、焦げるような煙草の香りと混ざり合ってたしかに鼻の内側をくすぐった。松浦は目を細めて左手で新しい煙草を口元に運び、コンビニの安いライターで火を点けた。松浦は、最初のひと口分だけ煙をふかす。彼がゆっくりと唇から吐き出した白が、あらゆるものが溶け込んだ細かな粒子のひとつひとつが、ゆるりと軌跡を描いて暗い空気へ消えていった。描かなければいけないものがここにある。杏沙にとってそれは直感に近いなにかだった。いつのまにか灰を落とすことすら忘れていた右手の煙草から、パンプスのほんの三センチ右側のアスファルトに、その残骸がぼとりと落ちた。
「そういうこと、たまに聞かれるんですよね、俺」
 今度は煙を肺の中まで深く吸い込んで、松浦は透明な息を吐いた。杏沙を見ることも、火の点いた煙草やほのかに光をうける月に視線を遣ることもなく、ただひとつ、言葉だけを投げ出して。
「別に、俺は顔がいいわけでもないし、写真写りとかだって、自分で見る限りでは普通だし。ずっと不思議だなって思ってたんですよね」
 フィルターから離れた唇が緩く弧を描き、彼は目を伏せる。少し細りすぎた三日月と、寂しく光るコンビニエンスストア、その前で紫煙をくゆらせる彼。そこに、杏沙の居場所はどこにもなかった。単体では平凡なはずの彼の存在は、どうしてかいまここにある杏沙以外のあらゆるものとひとつになって、質量を持たない、それでもその存在が静かに現前する、たしかなあるイメージとして、杏沙の頭の中へと流れ込んでくる。この感覚は、どこかどうしようもなく深い場所で、ずっと昔から知っているものだ、と杏沙は身震いをした。それ自身決して美しくも儚くもないというのに、ある種の憧憬として他人に消費されることに慣れきった瞳の色。それを杏沙はずっと知っていた。そういうものばかり描いてきた。
「道楽で相手を買うような金持ちのゲイとか、小説家、写真家、それから、絵描きとか  このひとたちって、俺のなにを見て、そんなこと思うんだろうって」
 背骨と背中の皮膚のあいだで細かな炭酸が弾け、それは杏沙の背を震わせながら胸から首筋までを駆け上った。松浦の指が、灰皿の淵で煙草を叩く。ニコチンなんかよりはるかに強烈で、どうしようもなく逃れがたい感覚が、杏沙の首筋から膨れ上がって脳髄の隅から隅まで広がっていく。
「だから、きっとこういうことは、杏沙さんのほうがよくわかるよ」
 そう言って笑った松浦の表情も、記憶の中では曖昧なのに、描きたいと思った色と情景だけは脳裏に焼き付いて離れなかった。

*

「杏沙、最近元気なくない?」
「え、そう?」
「なんかぼけっとしてること多いけど。どしたの、失恋?」
「してないって。最近レポート忙しかったからなあ」
「あーね、専門単位取れそう?」
「わかんない。でも佳代さんのレポートめっちゃ頼った」
 思い出してしまった衝動は、慣れきったはずの現実の後ろからひたひたと杏沙を追いかけていて、その焦燥で目の下に浮かび上がった隈は、コンシーラーとアイシャドウで隠した。杏沙が再びそれを思い出したとしても現実は待ってはくれないし、遊びの予定はこれからもいくらでも詰まっている。それらを投げ出して、ようやく板について来た今の杏沙を捨ててまた筆を持つという選択は、杏沙にはどうしたってできないと思う反面、そのことにひどく焦がれている自分がいるのもまた確かだった。
「てか、ずっと聞こうと思ってたんだけどさ」
「うん?」
 急に真剣な顔をして声を潜めた友人に、思わず杏沙の声も低くなった。彼女はぐっと杏沙に顔を近づけながら、従業員部屋の隅で男性陣と会話をしている松浦へと目の動きだけで視線をやった。言いたいことを察して杏沙がそれを先回りで否定するよりも、彼女が口を開く方が数瞬だけ早かった。
「杏沙、松浦くんとどうなの?」
「ええ、なんで。どうって言われても、別になにもないって」
「うそだ、しょっちゅう見てるじゃん、松浦くんのこと。最近仲いいし」
 しょっちゅう見てる、という指摘だけはどうしたって事実だったけれど、それが決して、恋情だとかそういう類のものでないことは、杏沙自身がだれよりもよくわかっている。松浦は見られていることにも気づかず、最近入って来た後輩の男の子と談笑している。
「シフト被ること多いから仲良くなっただけだよ。ていうか、別に私のタイプじゃないし」
「うーん、それを言われちゃうとそうかも。でも、松浦くんって冷静に考えるとすごく優良物件よね。めちゃくちゃ好青年だし、学歴もまあまああるし、めちゃイケメンってわけじゃないけど背は高いし笑顔が素敵だし」
「アタックすればいいじゃん、私は止めないよ」
「まあ、私のタイプでもないかな」
「だろうね」
 ふと、友人が視線を杏沙から逸らしたタイミングで、松浦が杏沙の方を振り返った。視線が合った一秒で彼は杏沙に微笑んでみせ、また元の会話に戻っていく。この鼓動と息苦しさが、恋だったらもっと簡単だったのにと思う。どれだけ杏沙が松浦という男に囚われていたとして、それが恋や愛というかたちで表象されることだけはあり得ないし、杏沙と松浦の視線は対称ではありえない。そこには必ず差異があり、だからこそ、杏沙の左手が震えるのだ。

*

「ああ、杏沙さん。お疲れさまです」
 ほんの数カ月もしないうちに、バイト終わりに立ち寄るいつものコンビニに、既に松浦が居て煙を燻らせているのも、もはや見慣れた光景になっていた。「お疲れ」と返して、杏沙も三ミリのメンソールを唇に咥えた。
 バイトが終わったあと、友だちとお喋りをしながら退勤の準備をする杏沙は、終業後すぐに帰り支度を終えてしまう松浦よりも、店を出るのは大分遅い。だというのに、シフトが被った日、松浦はいつでもそこで杏沙を待っていた。そのあいだに、煙草を何本灰にしているのか杏沙は知らない。
「今日、店長機嫌悪かったですね」
「ほんと。私八つ当たりされたよ」
「災難でしたね。俺、今日はキッチンでよかったです」
「というか、そもそもあのひと松浦くんには甘いよね。好青年ってずるい」
「でも、副店長は杏沙さん大好きでしょ」
「まあね。社員さんには気に入られるのがいちばん」
「意外としたたかですよね、杏沙さんって」
「ひとのこと言えるの?」
 松浦の顔も見ないで投げ出した問いに、彼はあいまいに笑うだけで明確な答えは返さなかった。バイトの愚痴や、たわいもない世間話のほかには、いつものこの空間にあるのは沈黙だけだ。松浦と煙草に火をつけているときだけは、いつもは恐れている沈黙が苦にならない。それだけでも、この不毛な時間を二人で持ち続けるには十分だった。
「別に、ひとに気に入られようとか、特別思ったことはないんですけど」
「そうなの?」
「いや、っていうと違うかもな  こういうふうに、見られよう、ってのはちょっと考える」
「こういうふう、っていうのは?」
「こう、害のない感じに」
 害のない感じに、という響きがなんとなく面白くてその言葉を反芻すれば、松浦はそれもしっくりこないのか、少しだけ居心地が悪そうに首を傾げた。
「怖いんですよね。他人から見た自分が、どういうのなのかよくわかんないのって」
「それで、害のない感じにしとくの?」
「まあ。わかりやすいじゃないですか。他人にも、自分にも、同じで」
 松浦はそう言ってからしばらく、また無言のまま煙草を一本吸いきった。彼を急かすつもりはなかった。松浦は、自分の内側のことを語るのがあまり得意ではない。けれど、それは杏沙がなによりも聞いておきたかったことで、だからこそ、彼がどうにか言葉にしようとしているその中身を、ひとつとして損ないたくはなかった。
「杏沙さん、前に、俺にモデルやってたことあるかって聞いたでしょう」
 ゆっくりと、確かめるように松浦が発した問いに、杏沙は静かに頷いた。少し冷えてきた空気が、薄いボレロの隙間から入り込んで肩を震わせていく。
「俺、年の離れた兄貴が写真家だったんです。そんで、あのひとは俺のことを撮るのが好きで。物心ついたときには、兄貴にはずっとレンズ越しで見られてたなって思う」
 松浦の瞳が、一番冷えた色をしているのは、彼の視線がどこでもないところを彷徨っているときだ。波のひとつもたたない、静まり返った水面が杏沙の周りを満たしていく。
「小っちゃい頃は、兄貴が撮った写真の中にいる俺が、自分じゃないような気がしてちょっと不気味だったんですけど、でも、そうやって育っていくうちに、今度は写真に撮られていない自分ってものが想像できなくなっちゃったんです。兄貴のカメラを通さないと、自分じゃないような気がした、っていうか、兄貴にそういうふうに思い込まされてたのかもしれないけど」
 なにも言わないまま話を聞く杏沙に、松浦は顔をあげて少しのあいだだけ視線を送り、また微かに笑みを浮かべて目を伏せた。松浦が語ったのは、芸術として消費されること以外に、自分として生きていく道を奪われたのだということで、彼はそうされることを望んでいるどころか、それ以外の生き方ができないのだという苦しいまでの独白だった。
「だから、写真の写り方とかってのはいまでもよくわかんないですけど、そういうのがないと、たまに、全部自分のことなのに、全部わかんなくなるときがあって。兄貴に撮られてたのは結構昔のことなんですけど、いまでも、カメラとか、絵とか、そういう見方をしてない他人に、俺のこと見られるのが、すごく  怖いって思うときがあるんです」
 松浦は、噛みしめるように「怖い」という言葉を口にした。他人の手によって消費されないと自分であることすら確かめられないことは、たしかに彼にとって恐怖であるのだろうし、だからこそ、松浦は他人にとって完璧な形で笑っていられたのだろうと思う。自分でいられないということは怖いことだ。それは杏沙にも覚えのある感覚だった。
「お兄さんは、」
「死にました。去年の今頃、俺の知らないところで、知らないあいだに」
 大きく吐き出された松浦の吐息には、薄く白い煙が混ざり込んでいた。呼吸を、奪われそうになる。呼吸だけではなく、なにもかもを。彼の存在は、他人からなにか大切なものを奪っていくことでしか確立されない。それを惜しみなく与えてしまいたくなるのが、きっと杏沙のような人間であって、彼の兄だったのだろう。芸術として他人を消費するという一方的な暴力が生み出した松浦という人間の空洞は、憧憬や美しさにいとも簡単に突き動かされてしまう人間にとっては、決して覗いてはいけない場所だった。

*

 日曜日の真昼間から、杏沙は松浦と待ち合わせて地下鉄の改札口に向かっていた。白いロングスカートに紺色のブラウスを合わせ、お気に入りのネックレスとパステルイエローのパンプスを履いて、いつも通りにナチュラル志向のフルメイクを重ねた恰好で、待ち合わせの五分前に改札口に辿りつくと、そこにはもう松浦が待っていた。「こんにちは」と笑みを浮かべた松浦もまた、いつも通りの優等生的な服装に身を包んでいる。バイト先でもコンビニでもない場所で松浦と会うのは初めてだった。
 ある日のバイト終わりに、唐突に「近いうちに、美術館に行きませんか」と誘ったのは松浦の方で、杏沙はそれを二つ返事で了承した。「デートのお誘い?」と杏沙が茶化せば、松浦も笑って、「それでもいいですけど」と言葉を返した。
 松浦が杏沙を連れて行った美術館では、ちょうど印象派のコレクションの展示が行われていて、そこには杏沙がかつて憧れた色彩がいくつもそのまま飾られていた。光を丸ごと飲み込んで内側からそれを吐き出す情景の美しさと、そこに描かれる切ないまでの現実感は、思い出と憧憬を一緒くたにして杏沙にあらゆるものを思い起こさせる。
 えんじ色のカーペットが敷かれた広い館内を巡っているあいだ、松浦とのあいだに会話はひとつもなかった。杏沙が彼に好みの画家や絵について問うこともなかったし、松浦は松浦で、杏沙に断りひとつせず、目玉の絵には眼もくれず別の展示室を覗きに行っては、順路を無視してまた戻ってきたり、かと思えばひとつの絵の前で何分も立ち尽くしていたり、とにかく自由気ままに動きまわっていた。著名な画家の作品がいくつも飾られていることもあり、館内はそれなりに賑わってはいたけれど、歩きまわって作品を見るのに特別不自由するほどでもない。
 いつになく落ち着きのない松浦の姿をちらりと見遣ったのち、杏沙も目の前の風景画に視線を移し、それをじっと眺め続けた。どこかから押し寄せて来たであろう水に浸された異国の街の姿。太陽の光を受けてきらめく水面は切ないほどに荘厳で、けれどそのどうしようもない美しさはこの地にとってはたしかに悲劇に他ならない。あらゆるものが酸素の乏しい内側に押し込められ、寄り添うようにじわじわと生命を奪われていく、扼殺にも似た息苦しさと悲しみの真上に、太陽を暗示するということ。相容れないはずのいくつもの情景は、キャンバスの上でだけはすべて、そして同時に事実たりえる。排反な事実が重なり合って当たり前のように両立し、静かにだれかの、自分の内側に入り込んでくる感覚を、杏沙はほんの数秒だけ瞼を閉じて受け止めた。太陽に目を灼かれ白く眩(くら)んだその向こう側にたしかに存在する、何万光年も彼方の恒星のように美しい悲しみの粒子たち。
 杏沙が瞼を開いたとき、隣には松浦が立っていた。背の高い彼の身体が、淡い照明を受けて杏沙の足元に影を落とす。彼は杏沙に声も微笑みもかけることはなく、ただ、杏沙と同じ絵を見ていた。水に閉じられた世界と、そこに描かれた鮮やかな愛、それから絶望。絶望、と杏沙は音を立てず、舌先だけでその言葉を反芻した。松浦の横顔とその言葉の響きが重なった。この絵と、同じだ。あるはずのないものを抱えているという意味で、そしてそれを当たり前にして生きているという意味で。恐ろしいとは思わなかった。けれど、やはり声をかけることもできなかった。

 美術館を出たあとに入ったカフェで当たり前のように喫煙席を選び、言葉を交わさないままにコーヒーに口付けて、そのあと同時にシガレットケースを取り出したことで、杏沙と松浦はようやく同時に笑った。それぞれにライターで火をつけて、禁煙席とこちらを区切る透明なアクリル板に、空調で流れた煙がぶつかってすこし広がる。松浦はいつものように一口目をふかし、灰皿に煙草を立て掛けてまたコーヒーカップを手に取った。そして、あの美術館がなかったかのように、彼は世間話を広げはじめ、杏沙を笑わせた。杏沙は、灰を灰皿に落としながら笑みを浮かべ、それに相槌を打った。
 松浦の言葉は、耳殻をくすぐって、杏沙の内側にゆるやかに浸み込んでいく。たしかに進んでいくシナリオを持った物語を、時間の順序を持って耳にして、理解をして、相槌を打つ。バイト先の店長が彼女に振られた話だとか、新しく入って来た大学一年生の子がしているらしい遠恋はいつまで続くだろうとか、このあいだアパートの入り口で猫が寝ていただとか、それが昔実家で飼っていた三毛にそっくりだったとか。松浦が、どんな些細なことも面白おかしく話してみせる男であることは、出会ったときからずっと間違いのない事実のひとつで、彼の話をただ聞いているのは決して不毛な時間ではなかった。だというのに、美術館を出てからずっと、杏沙と松浦が肘をつくこのテーブルの周りでは、どうにも時間の流れが止まってしまっている。会話もストーリーも進むのに、杏沙と松浦というこの物語だけが前に進んでいかない。松浦はそれをわかっているかのように、中身のない言葉を次々と紡ぎ続けた。
「俺、杏沙さんに、兄貴の話(はなし)したことありましたよね」
 いくつめかの単発の話題が終わったあと、松浦は一瞬だけ間をおいて、不意にそう言った。唐突な言葉に驚きながらも、杏沙は頷く。
「写真家だったんだっけ」
「そうです。たぶん、それしかできなかったんじゃないかな」
 松浦は灰皿に置いた吸いかけの煙草から手をはなし、ホットコーヒーのカップに指をかけた。松浦の喉を、温い液体が滑り落ちていく。それを視線で追っているだけで、杏沙の頭の中にはまた新しい色が生み出され、浸みわたるように広がっていく。左手が、震える。
「あの絵、俺、兄貴と見に行ったことがあるんです」
「へえ、そうなんだ。いつ?」
「俺が中学生のときかな。兄貴は、とっくに家は出てたけど、まだ大学生だったはず」
 松浦が指示語で指した絵がどれのことだかは、考えるまでもなくわかった。絶望と光と愛を全部ひとつの画面に描ききった、あの。いとも容易く、生きていくということを奪っていく鮮やかな色彩と、そこに暗示される太陽の明るさは、絵そのものの仔細を忘れてしまったあとでも、杏沙の瞼の裏に色濃く刻み込まれていた。それは、どうしたって杏沙から離れていかない残酷な衝動によく似ていたし、松浦の虹彩の向こう側に湛えられているものも、たしかにあの洪水の色だ。
「夏休み、家にひとりでいたら、いきなり兄貴が帰ってきて。暇かって聞かれて、うん、って答えたら、そのままバイクの後ろに乗せられて。そんで、最初に連れてかれたのが、あの絵が来ていた展覧会だったんです」
 目をつぶらなくとも、情景が浮かぶようだった。絨毯の敷かれたあまり広くはない展示室の中、ひとつの絵の前に会話もなく、彼らはいる。蒸し暑い夏と隔絶された無機質な空間の内側には、ただそこにだけ太陽があり、透き通った水の色があり、散乱する七色の輝きがあり、呼吸を奪っていく冷たさがあり、絶望があり、希望がある。そのすべての色を、薄い光彩の奥に飲み込んだ弟の瞳の色と、きっとまだそう大きくもない成長途中の細い体を、兄が横目で視界に収める。呼吸のようにそれを飲み込んで、ほんの一瞬瞼を閉じ、彼の名前を呼ぶでもなく、静かに絵に向き直る。
「あの絵は、松浦くんに似てるよね。私はそう思ったよ」
「  兄貴にも、同じことを言われましたよ」
「だろうね、やっぱり」
「俺より杏沙さんのほうが、兄貴のことをよく知ってるみたいだ」
 松浦はひとつ息を吐いて、彼の長い指が灰皿に煙草の灰を落とした。どれだけ白い煙を肺に吸い込んだとして、彼の内側の湖は澱むこともない。この世の中で、なによりもなにかを引き寄せようとする力を持ったものは、なによりも空虚で、透明で、冷たい場所だ。
「それからしばらく兄貴と一緒にいたんですけど、俺は兄貴がなにしたいのかも全然わからなかったし、何日かしたあとに、もう家に帰りたいって兄貴に言ったんです。そうしたら、兄貴は、一枚だけ、  バイクで家を出てから、そのときはじめてカメラを俺に向けて、一枚だけ俺のことを撮って。そのあと家に帰って、それからずっと、兄貴とは会ってもなくて  いきなり、死んだって言われたときも、ああそうなんだ、くらいにしか思わなかったな」
 一口だけ残った冷めたコーヒーを飲み干した松浦は、いつものような人の好い微笑みを浮かべていて、彼の兄への思いをその表情から伺うことはできなかった。松浦という人間に最初に魅せられたひと、彼をだれかに奪われ続けることなしには生きられなくしてしまったひと。そのひとがシャッターを押して切り取った松浦の姿を見たいと思ったし、けれど、それを目にしてしまったら、きっと戻って来られなくなるであろうとも思った。左手が所在をなくしていく感覚を払拭するために、杏沙は口を開いた。
「どんなひとだったの、お兄さん」
「よく、覚えてないんです。結構一緒にいたのに、カメラを持っていないときのあのひとが、なにを見ていたのか、とか。俺は、たぶん、なにも知らなかったんです」
 それは、決して悲しげな口調ではなかったけれど、松浦は目を伏せていた。空になった彼の白いコーヒーカップの底が、ゆるやかに照明の明るさを映し込む。
「でも、あのひとは、そういうふうにしか生きられないようにできていて、実際、最期までそういうふうに生きていたんだと、思う」
 松浦の語る追憶でしか知ることのできないその青年が、杏沙と同じ空間を生きることはもう二度とないとわかっていて、それでも、杏沙には彼の人生を他人の物語として聞き流すことはできなかった。松浦が、それを知って杏沙に兄の話をしたのであろうこともわかっていた。
「結局、俺はあのころ、兄貴の望むものにはなりきれなかったし、わかろうとも、していなかったんです。あのひとが見ていたものも、あのひと自身のことも」
 視界が歪んで、杏沙は瞼を閉じる。松浦は灰の落ちかけた煙草を杏沙の右手から抜き去って灰皿の縁に置いた。手のひらの温度は、熱くも冷たくもなく、ただ、そこにあるだけの暖かさをしていた。松浦が語った言葉が、後悔であるのかどうかは、杏沙にはわからない。ここにたしかに存在するのは、松浦の兄が、そういうふうにしか生きられなかったのなら、松浦だって彼らのような  杏沙たちのような存在から独立して生きることは許されていないということそれだけだ。
「わかってあげればよかったと、思うの?」
 杏沙の問いに、松浦はやはり微笑むだけで、なにも答えはしなかった。彼の兄と彼のあいだにどんな因果や後悔が横たわっていたとして、松浦が芸術として消費されうる存在であり、杏沙が彼の生を握るその虚無にどうしようもなく惹かれていることは、ただ事実だ。この男を描くことを、自分が生きるすべてにしてしまいたいという衝動は、いまここではたしかに、杏沙のためにしかるべく用意されたものだった。
「杏沙さん」
 吸い終えた煙草を消し、間髪入れずにもう一本に火をつけて、松浦は杏沙に向かって目を細めた。色の薄い瞳の向こう側に、果てしなく続いていく水面が覗いている。波ひとつ立てずに、静謐なままに光を受け止めて、底の底まで透き通った美しさ。そこに、なにもないということ。彼を描きたくなるのは、そこに描きたい表象が存在するからではない。自らの手で彼そのものを形而下に落とし込み、消費してしまわないことには、この体の内側に潜むポール=マルリーの洪水に、呼吸も、生きていくことも、なにもかも奪われてしまいそうになるからだ。
「行方不明にならない? 俺と、ふたりで」
 もう一度煙草を取ろうとした右手の指が、隠すこともできないほどひどく震えた。喉が疼くように痒み、杏沙は唾を飲んだ。閑散とした静かな店内で、喫煙席には気付けば杏沙と松浦のふたりだけが閉じ込められていた。アクリルの壁の向こう側の音はもうひとつだって聞こえないまま、杏沙は煙草のフィルターを指で潰した。言葉を返す前に手を伸ばしたグラスのアイスコーヒーは、もうほとんど氷が融けて薄くなってしまっていた。
「どこに?」
「どこまでも」
「ばかみたい」
「知ってます」
 瞼を閉じてしまえば、いま目の前にいるこの男の姿が、自分の中から一生消えなくなってしまうことを知っていた。だから、杏沙は決して目を閉じることのないように、灰皿に添えられた松浦の指に視線を逃がした。
 うまく息を吸い込むこともできないまま、杏沙は口を開いた。声を揺らさないように、煙草を持たない手を強く握る。答えは決まっていた。けれど、鳥肌がたつほどにそれを言葉にすることが苦しかった。
「私ね、あさって、学部の友だちと、パフェを食べに行くの」
 だれと共に生きることもできないのに、だれかに消費されていないと呼吸ができない、杏沙の目の前にいるのはそういう男だ。彼を消費するというのが、杏沙にとってこのうえなく魅惑的な行為だということは違いない。杏沙も、十八年間はそうやって生きてきた。消費されうるあらゆるものを消費することに疑問のひとつも抱かなかったし、それを自分で選択していると、信じて疑いもしなかった。
「原宿に新しくできたお店でね、平日に行かないと行列がすごいらしくって。授業は  まあ、一度くらい、でなくたって平気だし」
「うん、」
「週末には、サークルの子と渋谷に買い物に行くし、先輩に映画にも誘われてるし。そのひとちょっと気になってたから、それまでにひとりで服も買いに行きたいな。人と買い物行くとさ、試着いっぱいしたりとかも気が引けるし」
「たしかに、そうですね。女の人って買い物長いし」
「たぶんね、あのひと、かわいい服着てるほうがタイプだと思うんだ。パンツよりは絶対スカート派だろうし、せっかくだから新しいのいくつか買っちゃいたいな。あ、そういえば、美容院にもそろそろ行かなきゃ。染め直したいし、パーマも取れてきたし。次はピンクとか入れてみようかな、アッシュ系の色って憧れるんだけど、すぐに色抜けちゃうらしいんだよね。そう考えるとちょっと迷うな」
「忙しいんですね、杏沙さんは」
「  そうだよ、忙しいの、私は」
 惜しむことなく時間を費やしてきたものを手放しても、驚くほどに空っぽにはなれなくて、毎日なにかに追われるように過ごす生活は変わりもしなかった。けれど、絵を描くことを辞めてから、杏沙の世界では、時間が止まるという感覚が失われたこともたしかだった。頭に靄がかかって見えているものが遠ざかり、それでも、見えていなければならないものだけは鮮明に浮かび上がっている、あの、鮮烈な。それを再び杏沙に思い出させたのが松浦だった。他人の時間に音もなく入り込み、時間の流れを、生きるということをじわじわと奪っていくひとつの実存。絵を描くから時間が止まっていたのではないということを、杏沙は松浦に教えられた。ほんとうの意味で絵に描けるものというのは、こちらの都合もおかまいなしに時間も生も奪っていく、なにも持たないものだけだ。絵を描くことを選んでいたなんていうのは、全部、うそだ。ずっと、そういうものたちに選ばされていたのだ。十八年間、ずっと。
「だから、ごめんね」
 杏沙は赤い火種が消えるまで、煙草をしっかりと灰皿に押し付けて、そっと指をはなした。松浦は口元だけで笑ったままそれをじっと眺め、杏沙が煙草を手放すと、静かに目を伏せた。
 現実を捨てる覚悟が出来ていたら幸せだったのかもしれないとはいまでも思うし、よくある大学生活や当たり前の生き方をいくぶんかでも諦めて筆を持ち続ける度胸がなかったことを、ほんとうはまったく後悔していないとも言えない。けれど、生きるべき場所をもう迷うこともしたくなかった。きっと、このさきも、勇気なんてものは持てないとわかっていたから。
「そうですね、それがきっと正しいです」と、松浦は微笑んだ。
 アクリル板のこちら側には、まだだれひとり現れない。氷しか残っていないアイスコーヒーのグラスに視線を逃がし、ライターに手を伸ばしたところで、さっき消した一本が、二十本入りのボックスの、二十本目だったことを思い出す。空のボックスを潰した杏沙の左手を、松浦の視線が追った。手持無沙汰を煙草で紛らわす、白くて指の綺麗な女の手。
 松浦がなにも言わずに差し出してきた煙草のボックスから、杏沙もなにも言わずに一本を受け取って、火を点けた。

今後の創作活動のため、すこしでもご支援を賜れましたら光栄に存じます。どうぞよろしくお願いいたします。