虹彩

   1

十五の冬に、俺は自分が自分の父親を知らないのだという事実を知った。驚かなかったわけではないけれど、存外すんなりと腑に落ちた。俺が、それまで自分の父だと思っていたひとは、母より十も年上の、落ち着きのあるしっかりとした大人で、母がそのひとと別れ一度の再婚と別れを経たいまですら、俺の面倒を見続けてくれている責任感の強いひとだ。あんな立派なひとが、どうして十四の女の子に子どもなんか生ませてしまったんだろうというのは、たしかにずっと疑問だったのだ。母は、手当たり次第に陶器のカップを床に叩きつけたあと、その破片が散らばったフローリングに座り込んで、忌むような口調で俺の父親のことを少しだけ語った。十四歳の少女だった母に愛を囁いて、体を重ねて、子どもが生まれるときにはとうに姿をくらませていた最低な男だ、と彼女は、その最低な男と自分との間にできた息子の前で吐き捨てた。電球の光を鈍く跳ね返す白い破片が、母の人差し指を薄く切った。どうして、俺のことを生んだのかは話してくれなかったけれど、その男の名前が、キョウヘイであることは教えてくれた。漢字は聞かなくても大体わかった。母が、齢十四で生んだ息子に京(ケイ)という名前をつけ、何人の新しい男と家庭を作ろうとして失敗しても、手放すことなく傍に置いて来た理由が、俺が母のもとに生まれ落ちて来た理由と、きっと同じだ。
*

 ミキ、と私を呼ぶ彼の声は、縋るようでいてどこか確信じみたものを覗かせている、決して純情ではない狡(ずる)い響きを持っていた。喉仏が揺れて、琥珀色の液体が彼の食道を流れていく。粘膜を灼く度数のアルコールを、神経質なまでに丸い氷の冷たさで誤魔化して、喉の奥に押し込んでいく。少し赤みのさした頬の上では、男性にしては長い睫毛に縁取られたヘーゼルの瞳が、照明を虹色に跳ね返すロックアイスの表面を眺めていた。特別綺麗なわけでもないが、とうに二十歳を超えたくせに、彼は無表情であってもどこか少女じみた造形を遺す顔をしている。大抵の男であればもう十年も昔に失っているはずのそれは、或いは無垢であることの象徴で、こんな声で女の名前を呼ぶ男にはなによりも似合わないはずのものだった。
「ケイ」と名前を呼ぶと、彼の瞳には私の顔が映る。
 彩度が低く極端に薄い茶色の虹彩の外側に、輪郭の惚けた緑色の輪が浮かんで見える、明るい瞳の色。日本人には珍しいその瞳は父親譲りの色なのだとかつて語っていたのを、彼自身が覚えているかは定かではない。
 間接照明だけが手元を照らす穏やかなこの店は、黒い眼をした私にはどうにも暗すぎたけれど、ケイにとってはこのくらいがきっと安心できるのだろう。ケイは、昼間に私を呼ぶことはない。私以外の相手でも、きっとそうだ。彼の色素の薄い瞳を灼く太陽の光が沈んだあとも、街を煌々と照らすLEDとネオンの灯り。そういったものから身を隠すように、ケイはここにだれかを呼ぶ。それが、今日は私だったという、ただそれだけだ。
「顔が赤いよ、ケイ」
 そう、意味などない会話の一端を放り出すと、ケイは少し目を丸くしたあと、照れたように微笑んで、「飲みすぎたかもな」と言った。グラスの中の氷が少し融けてからんと音を鳴らす。特別酒に強いわけでもない彼は、それでもアルコールとセックスくらいにしか、逃げ場所を見つけることができていない。逃げるために利用されていることを知っていてなおここに来るのは、憐れみが半分と、彼がそれでも優しいひとであるのが四分の一と、残りは、よくわかっていない。許されてしまう、気がするのだ。この瞳の色に。周りがだれひとり認めてくれないことを、それゆえずっと隠してきたことを、この男なら、許してくれそうな気がしてしまう。
 また、口をつぐんで目を伏せたケイに、なにかあったのか、と聞くのは無駄だ。なにもないのなら、私も彼も、ここにはいない。
「ミキ」と、もう一度、ケイは私の名前を呼んだ。
 彼もまた、わかっているのだ。私が彼を拒むわけがないことも、私がここに来た意味も、私が彼に抱いている感情も、すべて。彼の唯一でありたいとも、彼のすべてを共有したいとも思わない。知らないままでいい。ただ、ケイと過ごすこの一晩が、明日になれば彼の中では夢と消えてしまうという、その事実は痛いほど私を倒錯させた。
「夢にしちゃえばいいんだよ、ケイ。いつもみたいに」
 明日なんて来なければいいと思うほど苦しいことがあったら、酒を飲んで眠れば忘れてしまうのだと彼はかつて笑っていた。そうすれば、朝になったらなにもかもがただの悪夢になっていて、寝ざめは悪くとも五分もすればほとんど思い出せなくなっているのだそうだ。ひとりでは眠れないときに、彼はこうやって他人に頼るのだ。明日になったとき、私を夜中に呼びつけたということまで覚えていたら上出来だ。
「ぜんぶ、忘れていいよ」
 私の一言に安堵の表情を浮かべる彼が、いつだってこの言葉を待っていることをわかっていて、私はケイの瞳を覗き込んだ。薄暗い店内では、あの虹彩の色はそれほど鮮明ではなくて、けれどケイが目を細めるその一瞬で、たしかに私の心臓は鼓動を打つ。
「——ありがとう」
 ケイはほとんど融けた氷のみの液体を一口流し込んだあと、ボックスを手繰り寄せて煙草に火を点けた。白い煙が彼の指先から昇っていき、天井に届く前に消えた。彼は、薄く吐き出した煙の行き先を、輪郭のぼやけた視線で追いかけて、半分も吸わないうちにステンレスの灰皿に手を伸ばした。赤く灯る火を押し消そうとしたその指を上から押さえたのは、ほとんど無意識だった。少し、時間が止まったようでいて、煙草の先は灰の塊へと姿を変えて静かに崩れた。私がケイの指からそれを奪い取り、自分の口元へ運ぶのを、ケイはどこか浮かされたような瞳で眺めていた。この時間も、空間も、甘い香りをした煙草の匂いも、彼のヘーゼルの瞳も、すべて、この午前二時のすべてがこれから彼の夢になるのだ。
 指先に熱を感じて、煙草を灰皿に押し付ける。無機質な銀の灰皿に、燻った熱がたったひとつ、私とケイが一息ずつ吸い込んだ煙を最後に一筋吐き出した。氷がまた一回り小さくなって、グラスとぶつかる硬い音を鳴らす。それがまっすぐ聞こえるくらい、私たちのまわりだけが静かだった。
「眩しい」とケイは呟いた。
 それが、金に染めた私の髪を見ての言葉だったのか、それともほかのなにかを見ていたのかはわからなかったけれど、そのとき、ケイと目が合うことはなかった。この世界が、どれだけの痛みを持って彼の眼を灼いているのかを、私は決して知ることはできない。
 緩く昇っていく煙が淡い光の合間に消える前、私たちはキスをした。これからする行為にはなにより似つかわしくないくらい、純情で儚くて、そのくせ真っ新に消してしまうことが難しい、そういう若い口づけだった。

*

 フローリングの溝に、母の指から零れ落ちた血の球が吸い込まれていくのを、ずっと眺めていた。母が食器を割る音が途絶えたリビングはひどく静かだ。来月でようやく三十路になる、髪を金色に染めたこの小さな女のことを、俺は十五年間、母さんと呼び続けていた。このひとは、高橋深雪(ミユキ)であった時間よりも、俺の母親である時間の方が、もうすでに長い。「京」と母は俺の名前を呼んだ。彼女を切り裂く鋭利な破片の上に座り込み、こちらを振り向くことはないままだったが、母が微笑んでいることはわかった。溝を埋めて赤黒く固まるあの血液を、俺はきっちり半分知っている。
「あのひとに、ほんとう、そっくりに育ったから」
 泣き叫ぶでもなく、金切り声をあげるでもなく、母は静かに呟いた。二人しかいない部屋に、その小さな声がよく響いた。母のもとに歩み寄ることはできなかった。母の指を切ったマグの破片を裸足で踏みつけることよりも、微笑む母の姿を見るほうが、ずっと怖い。
「京も、きっといつか、あたしのことを捨てるのね」
 深雪という名の女は、そう呪いを吐いた。

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