「謝った=許してもらえる」の恐ろしい罠
主張
「謝った=許してもらえる」と思っていませんか?それは大きな間違いです。そもそも、なぜ謝るのでしょうか。
人は何かしでかしてしまった場合、相手に謝ります。「ごめんなさい。」「申し訳ありません。」「すみません。」これらの言葉には強弱があるのですが、今回それを書くと話が脱線するので止めておきます。
そもそも、なぜ謝るのか。それは罪などの呵責から逃れるためであったり、許しを請うために謝ります。しかし、実際に許すかどうかの判断をするのは相手であり、謝った自分ではありません。それを勘違いしている人が多いです。
小学校でたまに見る指導として、「〇〇君が謝ってくれたんだから許してあげましょうね。」というものがあります。たいていの人はこのことに疑問を持たないため、将来大人になったとき「私は謝ったのに許してもらえない」という見当違いな文句を言ってしまいます。ですが、前述のとおり、「許すか許さないかは相手が決めること」であり、謝る目的は「自分が呵責から逃れるため」といった自己の問題の解決や、「許されたい」という願望のためだと忘れてはいけません。
また、謝罪しては同じことを繰り返しているようでは「本当に反省しているの?」と思われてしまいます。つまり謝罪するということは、「同じことを繰り返さない」という宣言でもあるわけです。それなのに「謝ったのだから許してよ」というのは、「本当に反省してる?」と疑問を持たれ、挙句「許してもらいたいから謝っているだけではないか」と見透かされてしまいます。
「相手が謝ったら許してあげましょう。」という教育は、「許してあげる」という寛容な心を育てることに一躍買っている面もあるかもしれませんが、それ以上に悪い影響を与えてしまう面のほうが強いです。
許すという寛容な心を育てたいのなら別の場面でよいわけで、「謝ったから許してあげようね」という指導は「謝ったら許してもらえるのが当然だ」という間違った価値観の植え付けや、「あんなことされたのに・・・でも謝られたのだから許さなければ・・・でも・・・」という心への負担や、「謝られたのに許せない自分は・・・」という自己肯定感の低下を招いてしまいます。そうではなく、『謝ることは「二度と繰り返しません。」という宣言であるということ。そして謝ることによって「自己の呵責から逃れられ、もしかしたら相手に許してもらえるかもしれない」ということ。しかし、許すかどうかは相手次第だから、許してもらえたらありがたいけど、許してもらえないかもしれない。その時はこれからのかかわり方を見直そう。』という指導をし、謝られた側には『無理して許す必要はないけど、可能なら許すほうが、自分の世界を狭めなくて済むこと。許さないことを繰り返してしまうと自分の世界を狭めてしまうことを伝え、許すことの大切さ、ただ、無理に許す必要はない。』という指導をしてあげてください。
注意書き
上記は一つの考えです。教師や親、指導者はいろいろな考えに触れ、いろいろな指導の業を持ってください。そして時・場所・場合・相手に会った指導を心がけましょう。繰り返しになりますが、上記は1つの例として使えそうなときは活用してもらえたらと思います。
最後に
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