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シルクロードの東の果て 文様考察

ひぐらし引きこもり日記13で書いた内容の続きです。

昭和49年9月に日本橋三越で開催された「中国の古緞通展」図録より
包頭絨毯「花王団文」19世紀後期 125×65 2枚

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上の額縁部分に使われている紗綾形文は、日本でも古くからある文様だとぼんやり思ってましたが、明の時代に日本に渡ってきたらしいです。
そして紗綾文は包頭の西の寧夏の緞通にもよく使われていて、このサイズはイスラム礼拝用に作られたと思われます。
この文様がシルクロードを東から西へ逆流し、1935年前後にホータンで作られた戦勝記念絨毯に繋がったと思われます。ホータンではこれ以外に似た文様が作られた気配はないので、赤穂緞通のもとになった絨毯はおそらく中国北西部の包頭あたりのものが遥々日本へ渡ってきたのでしょう。

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こちらは「Chinees carpets」という英語で書かれた写真集の中の一枚。
無断掲載すみません!19世紀中国北西部の藍染め緞通と書かれています。
大きさは80×157cmで日本の緞通サイズより少し小さめですが、これぐらいのサイズを基に一畳の図面を作るのは比較的容易だっと思われます。赤穂緞通は緞通場と呼ばれていた小さな手作り工房で織られていたので、図面を一から作ることは大変だったはずです。その苦労がしのばれる文様もかなり残っていますが。堺に図面を売っている業者があってそちらから購入したという記録もありますので、鍋島、堺、赤穂に共通した文様があるのはそちら経由かもしれません。

ここで19世紀から20世紀にかけての大陸と日本の歴史をお勉強する羽目になってしまいました。
清の時代、アヘン戦争が勃発し、北京条約1860年、日清戦争終結が1895年
この激動の時代の歴史には商業的な方面がまったく抜けていて、絨毯のことなど調べようがありません。頼みの綱の図書館はコロナ渦のせいで休館中なので、それまでは過去に収集したり、新しく取り寄せた緞通関係の資料を丁寧に読んでいこうと思います。
鍵になるのは京都の町衆。引きこもり日記11でも書いたように、江戸時代の鎖国のさなかでも海外の貴重な染織品を入手してきた人々は、明治のころはどんなだったのでしょうか?

赤穂緞通工房ひぐらしG wrote #赤穂緞通 #文様

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