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赤穂緞通はどうして生まれたか?

さて、ずっと私が疑問に思っていたことがあります。
赤穂緞通は児島なかという女性が弘化年間(1845年ごろ)に高松で万暦氈を入手し、それを再現しようと試み、明治3年(1870年)座布団大が完成、明治7年(1874年)に一畳織り完成、という点。地元の郷土史研究家による資料の中に明記されていますし、一般的に公開されている赤穂緞通の紹介にもそのように説明されています。
赤穂緞通についてはこちらがわかりやすいのでご覧ください↓
赤穂緞通ー立命館アートリサーチセンター

でも万暦氈って何?そんなに夢中になって25年も試行錯誤して作るほどのものだったの? その疑問に解決の糸口を与えてくれたのが以下の文章。
大阪大学学術情報庫の「赤穂緞通の文様研究」高嶋忍氏wroteより抜粋
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『赤穂市史』第6巻(1984)によると,赤穂緞通は中国の「万歴氈」が元だとされるが,中国緞通だけでなく中近東の絨毯も文様の手本にしていた可能性がある。1900(明治33)年の農商務省編『工芸品意匠之沿革』は,輸出意匠における海外実地調査の結果報告であるが,このなかに関連する記述が残されている。同書では国内で流通していたペルシャ・トルコ絨毯について,中国経由で輸入したものを万歴氈・オランダ経由で輸入したものを天鵞絨絨氈と名付けていたが,外国との交通が盛んになってから生産地が判明したとある。この『工芸品意匠之沿革』の記述から判断すれば,初期の赤穂緞通は中国緞通だけでなく中近東の絨毯も手本にしていた可能性が高くなる。
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正確には19世紀半ばに児島なかが入手したものが万暦氈であり、試行錯誤の期間に色々な地域に出かけて参考資料を収集していた、とあるので、鍋島、堺を含め、あらゆる絨毯を文様の手本にしていたと思われます。
万暦氈とは明の時代につくられた絨毯でなく中国経由の絨毯ということであれば児島なかはいったいどんな絨毯を入手したのでしょう?
江戸時代の大陸からの渡来物は瀬戸内を通り京都、大阪、江戸へ運ばれました。児島なかの家は海運業?だったので、そのような渡来物を見る機会は少なくなかったはず。また赤穂は塩のおかげで江戸時代から大変豊かで京文化も早くから取り込んでいました。その彼女が「偶然目にした万暦氈の精巧さに感動し」『赤穂市史』第6巻より引用
それはどんなものだったかは残っていませんが、20代前半の若い女性の心をそこまでとらえた絨毯は半端なものではなかったはず。しかも地元資料に残っている彼女は行動的で実行力に満ちている。鍋島等と違って大陸の機を模倣せず、独自に水平機で開発を続けたところを見ても、彼女の強い意志が感じられます。

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赤穂市田淵記念館企画展図録「赤穂緞通」より引用
これは地元に残るごく初期の赤穂緞通です。試行錯誤のあとは見られますが、鋏で筋を摘む技法は確立しています。

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そして、この「十字唐草」は児島なかが考案した文様だと伝えられています。だとすると精巧さの意味するところは、文様の緻密さではなくて鋏ワークではなかったか?
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赤穂緞通工房ひぐらしG #赤穂緞通 #文様 #絨毯

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