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シルクロードの東の果て 19世紀

赤穂緞通はどうして生まれたか?の続きです。
1845年前後の清は激動の時代でした。アヘン戦争が1840年に勃発し、南京条約1842年、北京条約1860年と続きます。
そして中国の絨毯は進出してきた英国を中心とする欧米列強によって流出していきます。一方ペルシャ絨毯は最盛期が17世紀までといわれ、18世紀にはアフガンの侵略などにより急速に技術が衰えたそうです。このクラッシックペルシャ絨毯は19世紀から欧米人のコレクションの対象となり、現在では欧米の有名な美術館に収蔵されているものがほとんどですが、日本にも祇園祭山鉾の懸想品などに保存されているのは大変うれしいことです。ちなみにこの品々は長崎を通じてオランダから18世紀ごろに渡ってきたらしいです。
というわけで、児島なかが目にした絨毯は時代的には中国系、ペルシャ系どちらも可能性がありますが、試行錯誤の頃から赤穂緞通は鋏入れの技術を取り入れていることから、高い確率で中国系の絨毯であったろうと思っています。中国緞通は清の初期に優れたものが作られ宮廷に収められたらしく、クラシックチャイニーズと呼ばれているらしいです。残念ながら現物を目にしたことが無く、いつか故宮美術館を訪れたいと思っています。が、写真などで見た範囲では赤穂緞通の「十字唐草」に繋がる文様は発見できませんでした。この「十字唐草」は不思議な文様で、数ある文様の中にも似たものがありません。一見地味ながら見飽きないというか、何処に敷いてもしっくりくる文様です。

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お寺などに納品することが多いのですが、これは若いご夫婦が気に入られて、この絨毯に合わせて家具を揃えてくださった写真。


この十字唐草文について、また新たな疑問が。額縁の工字繋ぎ紋は中国絨毯に見られる、その周りの文様は鍋島緞通から?メダリオン的な十字はいったい何処からきたのだろう?しかも1つではなく2つ。
児島なかは万暦氈を入手してから20年以上も試行錯誤を重ねていました。時代は幕末の動乱期に、九州、四国、山陰を訪ね歩いていたと記録が残っています。これ以上の資料は無いので、ここからは私の想像となります。
この「十字唐草」は非常に洗練された独特の文様です。高い確率で児島なかが自ら作ったと思われます。中国緞通の額縁文様、包頭絨毯に見られる遊牧民の鞍掛け用として作られた左右対になった文様
「Chinese Carpets」より引用

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そして十字文様はテンプル騎士団の紋章でしか見たことが無い。。
彼女は、これらの文様を参考に、時間をかけてこの文様を作り上げていったに違いないと思っています。
もし詳しいことをご存じの方がいらしたら、どうぞご連絡いただきますようお願い申し上げます。

赤穂緞通工房ひぐらしG wrote #赤穂緞通 #文様 #絨毯

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