ある大学受験記(純浪のち早稲田文構仮面)

はしがき

 混沌の中にあった受験生時代が終わって早くも半年が過ぎ去り、往年の記憶は急速に薄れつつある。いつまでも過去に執着するのは満足した“今”を送れていない証左、と一般には言うから、これは至極健全なことなのかもしれない。しかし、私は、自らの若さを費やして東大に挑んだ苦節の跡を確乎たるかたちで残しておきたいと思った。これは、進路が定まっているであろう1年後、あるいはもっと先になってから自分で読み返すためであるし、知己らと拙文を肴に語らうためでもある。したがって、他人様に広く読んでもらうには少々不向きな内容・文量になってしまったことをまずお詫びしたい。また、とても“仮面体験記”とは言えない自己満足文の掲載を諾していただいた、会長並びに他会員の皆様に感謝申し上げる次第である。

履歴書
【名前】淡路
【所属】教養学部(文科Ⅲ類)1年
【性別】男
【浪数】2(K=1)
【出身地】山がちな県
【出身校】公立高校→非大手予備校
 →早稲田大学文化構想学部(中退)
【仮面形態】休学なし、通信教育利用
   サークル・バイト・予備校なし

遠い中高時代

 はじめて東大を意識したのはいつのことだっただろうか。

 中3の夏、理科の授業終わりのことである。初老の教科担任にちょっと話があるからと呼び止められた。研究室に入るなり、部活動の顧問でもあったその先生は言った。

 おまえは東大に行け!

 思いがけない言葉に頬を紅潮させながら、私は理由を訊ねる。

 おまえの勉強に向かう姿勢・普段の行動が、オレの息子によく似ているんだなぁ……

 先生の息子というのは、地元の公立校から一浪を経て東大文Ⅰに合格した秀才である。高校見学の折にもらったパンフレットに一番デカデカと載っていたあのひとと似ているだって?

 東大の入学式は本当にすごいんだ!おまえも親御さんにみせてやれよ!

 対話の終わり際にこう励まされたが、要領を得ない返答に終始したことが強く記憶に残る。

 小中高と公立出の田舎坊主であっても、実際のところ中3の頃から東大を目標にしはじめたとは、やはり特別だ、意識が違うと思われる方があるかもしれない。しかし、模試の志望校欄に東大の名を登場させるようになった、つまり志望校として考えはじめたのは、高3に入ってからである。それまでは、東大を現実的な選択肢として捉えたことなど露もなかったように思う。

 それもそのはず、県を数分割した1地域の首位高校に進学してからというもの、1年次の成績は約300人中50~80位で、2年次は20~50位をさまよっていた。ちなみに私の通っていた高校からの旧帝・医学部現役進学者は年平均15人を下回る。さらに東大への進学となると、ここ数年は現浪合わせて1人と相場が決まっている。当の私といえば、数学の考査で大コケして追試を食らったこともあった。へえ、○○くんもこういうことがあるんだね~、と同級から慰められつつ茶化された記憶はヤケに鮮烈である。

 ここで高1・2年当時の志望校を振り返ってみよう。まずは何といっても北大。小学校の時分より北の大地に行きたいという強い想いがあった。これはその頃の担任が北大出身で、在学時の楽しい想い出を聞かせてくれたことによるものが大きい。

 しかし、北海道は遠すぎるという過保護気味な母の強硬な反対で、他大学も考えはじめることになる。それが筑波に名大である。どちらも中高の得意科目であった地理の研究ができるという共通点があって志望順位は高く、高2の盛夏にはその2学のオープンキャンパスにも参加した。筑波のオープンキャンパスを抜け出し、炎天下を国土地理院へ向かって歩いたことが懐かしい。宏大なるかな、筑波研究学園都市……

筑波

 今はなき、つくばVLBIアンテナを眺める

 これらの志望校は、当時の私の学力と照らしてやや野心的と言えよう。なぜなら先ほど示した通り、我が母校の旧帝・医学部現役進学枠の15人には、その当時の私の力では割り込めない。

 それでも高2の終わりにかけて徐々に校内順位を上げていった私は、高3頭のマーク模試で9割近くを取ってしまったのだ!“ホンモノ”の進学校出身者のなかには、この妙に誇らしげな口上にケチをつけたくなる方があるかもしれないが、こればかりは、まあちょっと大目に見てほしい。

 塾の世話にはならずに緩やかながらも成長できた理由は、今でも釈然としない。所属していた部活が月にたったの1回しか活動しないユルユル登山部だったために、暇な時間を勉強に充てられたからだろうか。どのみち、ここで「伸びる勉強法」を大公開できないのが悔やまれる。以下の拙文内においても、受験生の勉強面で参考になりそうな話題は皆無に等しいことを早い段階で明記しておく。

 前の話に戻ろう。センター模試9割弱は学年の文系内で1位だったようで、さすがに色めきだった。

 ちょうどその頃だろうか、不敵な笑みを浮かべた進路科の無頼漢・K先生に北校舎の階段でこう言われたのだった。

 ○○、東大受けない?

 二浪を経た今現在から思い返してみれば、底知れぬ魔境へと誘い込む悪魔の咡きとも取れるかもしれない。しかし、当時の私は、二つ返事でそれに応えた……

 この想い出には後日談がある。合格の決まった今年の春、県内の遠地へ赴任したK先生の元を訪ねて嬉々としてこの話をすると、「確か2年の終わりの頃から何度か声掛けていたけど……」と訂正されてしまった。なるほど、最初のうちはあまりにも現実性の低い誘いであると断じて、完全無意識のうちに退けてしまっていたらしい。

 さて、本線に回帰しよう。はっきりとした東大受験の誘いを受けて舞い上がった私であったが、先生方との複数回の面談を経て定めた志望校は京大であった。平安への憧れというのもむろんあったが、私のような生徒が東大に行けるわけがないという後ろめたさの方が大きかったのである。

 これは至るところで言われていることであるが、私が過ごしたような環境で東大・京大志望であると明らかにするのは、心理的負担の大きい行為だ。かく偉そうに言う私だって、高1の頃、「俺は京大に行くんだ」と静かに語り出した中学からの友人に対して「おまえが京大に?ホントかよ?」と投げかけてしまった過去を持つ。

 だから同級らに対して東大受験を自らはっきり言明したのは、センター明けのことであった。しかしこれは、学校内で孤独を極めていたということを意味しない。なぜなら高3の夏を迎えるや、難関大志望者には数々の冠模試が待ち構えている。そこで大概の顔は知れて交流が持たれるのだ。

 その中にとりわけ力強い同志がいた。それは、部活を同じうしていたOという男であった。彼は同級だった1年のころから私より少し成績がよく、当時から好敵手的存在として認識していた。そんな彼も文系で東大・京大を目指すということで、頼もしい仲間を得たものだなと大きな喜びを感じたのだった。

 さて受験生の短い夏、私の受けた冠模試は京大オープンに東大実戦であった。これは、一応東大も考えなさいという先生らの助言を受けての妥協的措置である。

 残暑ももう終わるかというころ、結果が届いた。京大OPのB判定に対し、東大実戦はD……

現役京大

 それを見て私の腹はすっきり固まった。京大は既に余裕だ、受験生たるもの“最高峰”を目指さねばならない、東大に行くしかない、そう強く確信したのだった。

 “普通”の現役東大受験生と言ったら、もう秋の深まるころには過去問演習でもしているのだろうか。そこら辺のことは、圧倒的な情報弱者だったがゆえによく分からない。

 では私は何をしていたかというと、一意専心にセンター対策である。10月の末にようやく地歴の範囲が終わる高校で学んでいるのだから、まあ致し方のないことであると言えよう。

 マークぬりぬりの甲斐あってか、範囲が本番と等しいセンター模試の点数は、師走に入る前に8割半ばに達していた。その一方で、秋の東大模試はどちらも散々な結果に終わった。EはExcellentのEだから心配ないさ~などと笑い飛ばせる空虚な余裕だけは持ち合わせていたものの……

慌ただしくも師走は過ぎ、平成30年に突入した。

 その年のセンター試験は暦の関係上、前年より約1週間早く日程が設定されていた。秋に講演に来たBネッセ社員の「今年度はセンター後二次試験まで長いんだからセンター前はそれだけに集中して大丈夫!」との言葉を真に受けて、それにほぼ背かない勉強内容で1月上旬までやってきた。数少ない歯向かった点といえば、日本史と英文和訳の添削を少々教科担任に頼んでいたくらいだろうか。

 記念すべき人生第1回目のセンター試験の記憶は、さして鮮明でない。強いて言うに、数学ⅡBが大爆死して浅からぬ傷を負った。しかし、その頃までには浪人に対する両親の反対が幾分か和らいでいたこともあって、志望校の変更を検討するには至らなかった。

正現役センター結果

 目指すは前期東大、ただ1本。周りからは筋肉主義者と讃えられ(、好奇の目で見られ)ることになる。

 センター後二次試験まで時間は充分にある!というB社社員の檄は本当だった。しかし、一次を突破した達成感からか追い込みに身が入らない。高校で開講される特編授業をあまり取らず、行く塾もなかった私は、登山部の狭い部室でただ参考書をペラペラとめくるだけだった。近年稀にみる厳冬に直面してもなお、暖かい教室で勉強する気は起こらず、ガスバーナーで湯を沸かし、小汚い寝袋にくるまりながらなんとか日をやり過ごした。自らの性の怠惰なるを痛感するばかりだった。

 勉学面では、教科担任の先生方にこまめに添削をしてもらっていた地歴で幾らかの向上が見られたほかは、手応えに乏しかった。特に苦手としていた英語の過去問にはほぼ手を付けないまま、2月24日を迎えることになる。

 その日新幹線で上京した私は、ひとり井の頭線に乗った。東大の構内に生まれてはじめて足を踏み入れるという行為を想像して胸を躍らせすぎたせいか、1駅乗り過ごし、正門の前で待たせていたOら同志を呆れかえらせてしまった。

 2日間の闘いを終えた感想としては、数学が実力を上回る出来に思われたものの、案の定英語がからっきし駄目で、8:2で落ちたかな、というふうに思われた。その感触は3月10日、確証に変わる。直後に届いた開示点を見ればすぐに分かることだが、最低点-29点と文字通り完敗も完敗であった。

正現役東大結果

 不合格を予感して学校の先生方と相談を重ねていたこともあり、不合格発表の後の動きは速かった。最寄駅より電車で1時間ちょっとの県都にある、某予備校の東大京大コースに特待制度を受けて入学することに決めたのだ。人生で初めて非公立の教育機関に通うことは、地方公立校でありがちな塾否定文化にどっぷりと浸かり、塾や私立に頼らないことをある種の誇りとしていた私にとって相当な辱めであったが、浪人させてもらえるだけでもありがたい、そう思った。

 というのも、その年東大を一般受験し、そして敗れた5人のうち、Oを含めた3人は不本意進学を余儀なくされていたのである。3月も末、5人で高校そばのファミレスの一角を占拠し、一同の別離を惜しんだ。その席において、後期合格した北海道大学での“仮面浪人”なるものに挑む旨を高らかに宣したOに対し「そんなバカな真似はよしなや」と返したような、そんな気がしている……

一浪(純粋)

 予備校の始まりは遅い。4月の半ばより授業が開始されるまでは、廃止寸前のJR三江線に乗りに行ったり、趣味に没頭したり、ただただ漫然と過ごした。入校までの間に基礎固めを実施することが強く奨励されていると知ったのは、だいぶ先のことである。

三江線 (2)

 新天地では、県首位校の出身者と交われる環境に恵まれた。その中に1人同郷の者もいる。彼は私と同じ自治体から2時間掛けてその高校に通っていたのである。そんな彼と知遇を得て、中学時代のある数学教師の熱烈な勧めに従って志望する高校を変えていたならば、今頃大学生活を送れていただろうか、などと無意味に自問したことは一度や二度ではない。

 その予備校での授業・生活は、修了から1年半以上経た今でもためになったと思えることが多い。授業の内容としては英語がかなり良かった。高校での英語の教授水準はお世辞にも高いとは言えなかったため、そこではじめて英文の読み方を教わった気がするのだ。また、古文は某進でも講座を持っている先生に教わった。授業中に突如として奇声を放つのが玉にキズと言えようか……

 ただ、個人的に明らかに失敗したことがあった。数学のテキストが高難度であったがゆえ、数学に対する深い理解を一切やめてしまったのである。数学に対する苦手意識が異様に鞏固となり、表面的な技巧を磨くのに丸1年を空費してしまった。

 その予備校では7月・10月の年に2回、生徒のほぼ全員が受ける模試の成績優秀者に対する表彰式があり、私はどちらも次席となって図書券を仕留めた。が、その模試というのは、一般的な高校生も受けるようなBネッセ記述模試である。では冠模試はどうだったかというと、悲しいかな、ことごとくD判定であった。河合OPは県都にも沿線にも専用会場なきがゆえに、母校での受験・結果返却だったのだが、そのD判定を受け取るときに視界に入った進路科教師の憐みの顔は何にも譬えようがない。

正一浪東大実戦1

正一浪東大OP1

 そんなこんなあり、予備校生活の間に東大合格が近づいてきた実感を得られることは全くなかった。周りの同級がええ判定を出してゆくなかで閉塞感だけが増していった。秋の深まりとともにいよいよ過去問演習が本格化したが、これといって対処法は見つからず、積極的に活用すべき講師にも気恥ずかしさによるものかあまり相談できず、ただただ時間が過ぎていったのだった……

 年が明けた。「平成最後の」という枕詞が既に使い古されていた新年である。

 前年度のようにセンター試験対策には念を入れていた私は、前回大失敗した数学で今度は快勝を収めた。1日目の終了後、満員電車を避けるために家に帰ることなく、会場からやや離れた古い旅館に投じて硫黄臭の強い温泉を楽しんだのがかなり効いたらしい。全体で9割越えを達成し、早稲田大学文化構想学部に満を持してセンター利用で出願した。その“ぶんこう”が一体何をするところなのかはよく分からないままで。

蘭の間この年のセンターの開示は長らく行方知れずのため、代わりにその温泉宿での夕餉の写真をご覧に入れる

 予備校のクラス担任との最終面談で私は、前期は東大、後期は筑波の比文を受けると表明した。それに対し、担任は受験断念を迫ることなく、ただ「イケるっしょ!」と、冠模試でD判定を連発した人物に投げかけるにはいささか不適切な言葉で送り出してくれた。

 最後まで自信を得られぬまま2月の24日を迎え、1年前と同じ渋谷のホテルに泊まった。駒場キャンパスまで迷わずにたどり着けるようになったことが、1年間で遂げた最大の成長だったとは、その時分かるわけもなく……

 試験後すぐに地元に帰って、家族にはとりあえず五分五分と答えたが、自分の中では合格率3割と踏んでいた。やはり数学がすっかり解けなくなっていたのだ。かような感触だったので、本来ならすぐさま後期の面接練習を始めなければならなかったが、担当してくれるはずの担任が長期に渡って校舎に来られないと聞いて一挙にやる気を失ってしまった。元々第一志望校以外の対策に力の入るはずなぞないのだから、当然といえば当然ではある。

 この怠けには、東大が不合格だった場合、センター利用で射止めた早稲田への進学に親が容認する姿勢を見せ始めたのも影響している。親としては一浪目にして初めて摑んだ大学合格が大変すばらしいものに映ったのだろう。一方の私としては、仮にダメだったらどうにかして受験を継続したいと思っていた。年の明けたあたりから時に及んで仄めかしていた純二浪については、ついぞ容認されなかったものの……

 3月10日、合格者一覧PDFに私の番号は、また、なかった。恩師や旧友から掛かってきた労りの電話には気丈にふるまえたが、夕食時、両親に対して浪人とその末の私大進学の罪を詫びるときには、やはり涙を留めることができなかった。

 数日後、開示が返ってきた。全神経を集中させてゆっくりとハガキの接着面を剝がしてゆく。最低点-7.5点……。大差落ちではなかったと分かって少しホッと息をついたが、この数点の間で一体いくつの夢が破れ、何人が涙を呑んだのだろうと考えると、身が凍てつくように震えた。

正一浪東大結果

 1年前を遥かに上回る空しさに包まれて年度末を迎えた私は、反対に輝きに包まれた朋友と再会した。それはOである。宣言通りに北の大地を脱して京大文学部に合格したあのOである。

 根雪の未だ融けない山道を踏みしめつつ、彼に仮面浪人中の出来事を洗いざらい話してもらった。京大への志望変更が奏功して冠模試で冊子掲載を連発したこと、年が明けてからは登校しなかったために受験失敗残留留年が目前に迫っていたこと……。彼の足跡を辿ると、予備校暮らしの間、大きな成長を手にすることのできなかった私の弱さが浮かび上がってくるようだった。彼は文字通り背水の陣で臨んでいたのである。

 その後、彼の実家にて下宿先から持ち帰ってきてくれた大量の参考書を受領し、再会を期して別れた。

 そう、早稲田進学を決めた段階で既に仮面浪人をするという決意を固めていたのだ。近くに成功例があってそれに倣わない手はなかろうし、「自分の人生は、東大に合格してからやっと始まる」との観念に完全に囚われていた。まず、高校へ行って早くも卒業証明書と調査書を1通づつ調達した。また、その場で進路科のK先生や元担任のN先生と面会して仮面浪人する旨を伝えると、改心するように諭されることはなく、むしろ褒め称えられ、背中を押してくれた。そこで初めて知ったことだが、ふたりともまさかの二浪経験者ということだった……

 親に対する説得は困難であったが、それも無理はない。せっかく年120万もの大金を払って通わせようとしている大学で、往生際の悪い息子が受験勉強をするといっているのだから。それでも必ず進級はするという条件で、勝手にしろとのことだった。ただし、早稲田合格を自分のことのように喜んでくれた祖父母など他の家族には伝えることができず、もやもやしながらの離郷となった。

二浪(仮面)

早稲田

 3月28日、オリエンテーションのために人生ではじめて早稲田の地を訪れ、新年度が始まってすぐの入学式に備えた。入学式は全体・学部ともに迫力ある出し物が目白押しで、参加した母・祖母はいたく喜んでいた。不加入を決め込んでいた各サークルから押しつけられる山のようなチラシの始末にほとほと困り、鬱屈とした思いを募らせていた私とは対照的に……

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