山と川がある町で
たまに思い出す高校の国語教師は、おそらく当時すでに50代の後半だった。髪は白いものが多く、薄いグレーの色合いを好んでいたスーツは、日々の着こなしからだろうが、とてもやわらかそうな素材に見えた。くたびれた背広という表現までは使わないが、パリッとしていなかったとだけは、書いておこう。
もとは東京の人だった。戦時中に東京大空襲で妹と一緒に逃げた話を、授業中に何度か聞いた。その後は早稲田でフランス文学を学んだというのだが、やがて「教師をするならば、ゆくゆくは山と川のある町で」と願いつつ、わたしのいた小都市に流れ着いたそうだ。どこまでほんとうかはわからないが、とにかくそう言っていたことはたしかだ。
石坂洋次郎の小説に出てくるような町がいいと、思っていたとのこと。わたしもたまたま何冊か読んだ作家だった。吉永小百合の主演で映画化になった作品もあり、石坂洋次郎は80年代前半の当時も、人気があった。
そういう理想をいだいていた人が、自分の田舎に流れ着いてくれたのならば、ここもけっこういいところなのかと、ぼんやり考えた。
ただ、公立高校の教師であるから定年にはなっていなかったはずだが、ときおり知識が怪しかった。忘れたのか言い間違えか、大学時代に学んだはずのフランス語についてまで、手を抜いた。曰く「フランス人は、最初は je (自分を指す言葉)で話していても、仲よくなってくると表現を tu に変える」と——。
いや、それはない。当時のわたしは自己流でフランス語の初歩を学ぶ程度だったが、それはあきらかに間違っていた。10代の生徒たちを前に、英語ならまだしもフランス語の話題はめずらしがられると思って、ご本人はあまり緊張せぬまま、あやふやなことを言ってしまった可能性がある。
おそらく je ではなく、vous(あなた)と言いたかったはずだ。vous が tu に変わるというのなら、意味がわかる。
もちろんわたしは、そんなことを授業中に口に出すようなことはしなかった。その後の自分の性格を思うと、当時はまだ思いやりがあったのか、あるいはたんに面倒だったのかもしれない。
その「山と川のある町」に、わたしは数年に一度しか足を踏み入れない。記憶にある当時の大人たちの多くは、他界されていることだろう。同級生らは、同じ家に住んでいる人もいるかもしれない。
何十年も住んでいる東京のこの界隈が、わたしの町だ。
家にいることの多い人間ですが、ちょっとしたことでも手を抜かず、現地を見たり、取材のようなことをしたいと思っています。よろしくお願いします。