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議事録は終わらない

 泉高祭が終わって一カ月経った九月中旬の金曜日。夕方に前期生徒会の解散式が簡単に行われて、僕ら十五人は生徒会室を後にした。エアコンのない蒸し暑い部屋に染みついた記憶を引き摺りながら、帰宅すべく校門を潜る。広場の「パラレル」のタイルを、色のついた部分をわざと踏むようにして歩いていると、ちょうどタイルで描かれた校舎のデザインと、夕日で映った実物の校舎の影とがほぼ重なっていることに気がついた。おもしろいなと思っているうちに、ふと屋上に当たる部分に不思議な影が揺らめいているのに気がついた。
 夕日を遮るようにして手をかざして振り返ると、立入禁止になっているはずの屋上で、人影がフェンスに凭れているのが分かった。体をシーソーのように揺らして、その輪郭が消え入りそうな感じがした。途端に肌が粟立って、僕はリュックサックのチャックが外れてしまったのも気にせず、二段飛ばしで階段を駆け上がった。
「梶原!」
 僕は人影に向かって叫んだ。梶原がフェンスの一番下の鉄のバーに足をかけようとしていたところだった。僕は夢中で梶原に近づいた。驚いた彼が慌てて足をバーから離した。
「どういうつもりだ。まさか、飛び降りようとしてたんじゃないだろうな!」
 梶原は平然とした態度でいつものスマイルを浮かべている。だが、いつもの自信ありげな彼とは何かが違った。彼の輪郭が夕日の光に包まれてぼやけている。こんな人間を見たのは初めてだった。彼は言った。
「お前は無視できねえ奴だと思ってたが…こんな場面を見られるとはな」
 諦めたように笑う梶原が許せず、思わず彼のブラウスの襟を掴んだ。
「理由を言え、理由を! 言わなきゃ、お前がこの学校の設計者の息子だってことを暴露する」
 梶原は呆気にとられたようであった。彼が「分かったよ」と観念したので、僕は静かに手を離した。屋上の地面に彼は座り込んだ。
「校門に『KJ・ハル』っていう刻印があるのが前から気になっていたんだ。普通イニシャルを書くとき、始めのアルファベットだけ表すものだろ。名字のイニシャルがKなら『K・ハル』って風にな。でも何故KJなのか、分からなかったんだ。それでパソコンでググってみたら、『鎌田晴敏』っていう一流建築家の名前が出てきた。見ればここの県の出身者だ。無料の辞書サイトの情報だが、鎌田晴敏は婿入りして一男をもうけた後、離婚してしまったらしい。その婿入り先の家の名前が…」
「梶原。梶原さや。俺の母親の名前だ」
 梶原はぽつぽつと語った。
「両親が結婚してすぐに俺が生まれた。父さんのことは、母さんからよく聞かされていたさ。そこで過ごす人を元気にする、素敵な建築を考えられる人だってね。なぜ離婚したか、詳しいことは分からなかった。でも中学のとき、母さんは病気で倒れて緊急入院してね。俺は祖母の家に引き取られた。二週間会えなくて、やっと見舞いにいったとき、ベッドに横たわる母さんを見て、本能的にもうお別れなんだって思った。そのとき、母さんが目を開いてこう言ったんだ」
 父さんがいなくて寂しい思いをさせてごめんね。父さんは悪くなかったのよ。ライバルの建築家から嫉妬を買って、面倒な裁判沙汰に巻き込まれたの。その負担から私たちを解放したい一心で離婚を申し出たの。婿養子だったから、名前も梶原から元の鎌田に戻して、自分との関係は無かったことにしておくからってね。
「俺はそれを聞いて、腹が立つのと同時に、無性に父さんが創った建物が見たいと思った。母さんの葬式が終わった後に、図書館とかネットとかで調べたら、泉州高校の設計者が鎌田晴敏だと知ったんだ。夢中で受験勉強して、祖母に無理を言って市外のこの高校に進学した。そして分かったんだ。父さんが俺たちを忘れたわけじゃなかったってことが」
 僕は彼が説明するのを聞いて、自分の考えが間違いでなかったことを確かめられた。「K・ハル」にせず「KJ・ハル」にしたのは、旧姓の鎌田ではなく梶原を踏まえてのイニシャルである点。カラータイルの広場の名前が「パラレル」なのは、一人息子の名前が「平行(ひらゆき)」で、英単語の「parallel(平行)」から名付けたものだという点。僕は静かに言った。
「包み隠さず話してくれてありがとな。だが、まだ分からない。何故お前が命を絶つ必要がある? お父さんの創った建築に、自分の血で汚すことになるぞ」
 梶原は悲しそうに首を振った。
「確かに頭をよぎったが…どうしようもなかったんだ。『フラッシュ・メモリー』、良いタイトルだと思ったぜ。俺の過去を感づいているのじゃないかと思えるくらい、今の俺にぴったりだった。俺がインタビューの動画を撮影しようと提案したのは、他でもない、父さんの建築をカメラに記録して後世に遺したかったからなんだ。建築は一見不変なようで、長い年月をかけて傷つき、壊れ、やがて消えていく。でも、校舎をカメラに記録することができたら、父さんの作品は永遠になると思った。父さんと母さんと俺の記憶を詰め込んだ、世界で唯一の建築をな。だけど」
 僕は後に続く彼の言葉を信じられなかった。生徒課の白河先生が、泉高祭が終了した後、他の先生に声を荒げているのを耳にしたという。
「『今回の動画撮影は今年限りにしてください。生徒会の議事録からも、企画の痕跡が分からないように巧く抹消してください。生徒たちは無邪気に遊んでいたようですが、カメラの準備や編集ソフトの導入、そのための準備時間など、無駄な作業が多過ぎました。インタビューを突然受けた学年主任から苦情も寄せられています。わが泉州高校は地元きっての名門校。非効率的な仕事は省いて、受験対策が円滑に行えるような努力をすべきです』って」
 議事録が書き換えられているという清森さんの疑念は、白河が原因だったのだ。だから梶原は絶望して、屋上に上ってきたのか…。むらむらとした熱気が体から立ち昇ってきて、僕は絶叫して拳を地面に叩きつけた。それを見た梶原は意外そうな表情をした。
「お前、おとなしい真面目キャラだと思ってたが、案外感情的なところがあるんだな」
 僕はもう一度、梶原の襟を掴む。
「当然だ。僕は出来損ないの、優柔不断の、マザコン高校生だ。だけどな、生徒会がたまらなく好きで、生徒会に集まった仲間が誰よりも好きなんだ」
 梶原は襟を掴んでいる僕の手首を握ると、くいっと簡単に外してみせた。
「サンキューな、平野。お前と仕事ができてうれしかった」
 でも残念だな、と立ち上がったとき、僕は思い出したように言った。
「そうだ。いつか、清森さんの水筒の件で情報をくれたよな。そのお返し、カフェオレ一本じゃあんまりだと思って、もう一つ用意しておいたんだ」
 僕はリュックサックから一冊の紙束を取り出した。表紙を見せると、梶原はひったくるように奪い取った。
「生徒会議事録…」
 ミーティングが終わるたびに、誰もいない生徒会室でひそかにコピーを取っておいて正解だった。これまでの数カ月間の記録は一通り保存して紐で閉じてある。たとえ泉州高校公式の議事録から抹消されていても、少なくとも梶原の手には正しい記録が遺る。
「それにな、梶原。いくら白河が『フラッシュ・メモリー』の記録を消そうとしたって、無駄だぜ。だって僕ら十五人のメンバーの海馬にしっかりと刻み込まれているんだし、泉州高校の全生徒、千二百人の夏の記憶にも存在している。たかが大人一人が操作したって、消せっこないさ」
 梶原は、大きな笑顔を見せてくれた。夕日に浮かぶ僕らの影が、はっきりとした輪郭をもって地面に投影されていた。
 梶原は唐突に言った。
「あっ、そういや、今度の土曜日、清森から買い物に誘われたんだった! やばい、私服の準備をしなけりゃならん。じゃあな!」
 僕はさっきの記憶をすべて消し飛ばして、駆けていく梶原の背中を追った。
「なんじゃと~! 聞き捨てならん! 成敗してくれるわ!」
「俺はまだ生きてやるぜ! お前がよければ、連れて行ってもいいぜ!」
「その言葉、記憶に留めたぞ! 地を這ってでも付いていく!」
 カラータイルの上で跳ねていく影二つを、高く聳える校舎が悠然と構えて見守っていた。

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