街の電気屋さんのパーパス
私の家の近所には、子供の頃からあった街の電器屋さんがまだある。
少し足を伸ばせばショッピングモールに大きな電器店があるし、車に乗れば郊外型の大型家電量販店がいくらもある。
殆どの人は量販店に行くだろうから、さぞかし街の電器屋さんの経営は厳しいだろうなんて余計な心配をする。
というのも、子供の頃は何軒もあった街の電器屋さんが、今残るのはその一軒のみだからだ。昔あったうちの一軒は小学校の同級生の家で営む店だった。
大型店の成長に伴って街の小売店が廃業に追い込まれる事が話題になったのはもはや過去のこと。
昔からの商店街が賑わいをそのままに残っているのは数少なくなった。
そこで思うのが、そうした変化によって日本人は幸せになったのだろうかということだ。
変化によって失われたものを上回る程の幸せを分かち合えるようになったのだろうか。
カネのあるところに資本や権力が集中し、その成果が再生産され続けることで成長するのが資本主義と民主主義の組合せ社会の強みだ。その一方で、格差の許容や自己責任原則を強いられる要因にもなっている。
同時に、豊かさの尺度の中心がカネに偏るのもこの社会の特徴だ。
カネの欲求だけが人を動かす動機になると、どうやってカネをより多く獲得するのかが最優先事項になって、脇目も振らずそのことに腐心するようになる。
カネを基準とした成長欲求は企業の根幹であるから、カイシャにとっての動機がカネの獲得であることは当然としても、カイシャの存在価値は本来別のところにあったはずだ。
社会をより良くすること、人々が人間らしい優しさや許容や包容力に溢れた暮らしを送るための助けになること、個人や地域が活気に湧いて生きることができるようにすること。
様々な価値観があり得るが、企業や金持ちだけが一人勝ちの状態になっているのだとしたら、少し軌道修正が必要かも知れない。
パーパス。
企業において存在意義を自ら見直そうという動きが見え始めた。
行き過ぎた資本主義的原理主義によってカネを追い求めることだけが目的化した結果、使用可能な限りある資源を分かち合う必要性や、社会に対する影響力に見合った責任を問われる時代になった。
これは私達にとって良いことだと思う。
個人も人それぞれのパーパスを見直して、社会や企業との関わり方を考え直してみても良いかもしれない。
一軒だけ残っている街の電器屋さんは間違いなく、人に優しいパーパスを持っていると思う。
おわり
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