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本はリレーする

本はリレーする。

幡野さんと宮下さん と高願寺にて「安らかで楽な死」について対談してから約1年。
奇しくも同時に3人の新刊が出た。

宮下さんの本には私も幡野さんも実名で登場し、高願寺での対談の記録も出てくるし、私の本には幡野さんとの別の対談で話したことが書かれている。3冊まとめて読むと、3人で交換日記でもして書いたのかというように、同じ事象をそれぞれの角度から眺めている箇所が見られて面白い。

幡野さんの本で印象に残ったのは、NASAの直系家族と拡大家族の話だ。
直系というのは、妻、子供、子供の妻だけなのだそう。特別室での打ち上げを見られる特権があるが、それは優遇ではなく、ロケット打ち上げに失敗した場合に、特別な支援が必要な存在だから。
この直系家族を、幡野さんは「選ぶことができる家族」とする。親や兄弟は拡大家族だ。自分で選んだわけではない、血のつながりでの家族。
そしてその選べなかった家族が、自らの病や死(安楽死も)について、家族自身が悲しみたくない、という理由で介入してくる。それに付き合って生きづらさを感じるなら、それは「選び直せばいい」と幡野さんは主張する。

それに対して宮下さんは本の中で、「命は誰のものか」という問いかけと共に疑問を呈する。
「幡野さんは本当は寂しさを抱えているのではないか」
と宮下さんは言う。幡野さんのスタンスは、欧米的な個人主義とも違う。個人主義とは、周囲にそれを認めてくれる他者がいて成り立つものだという。
幡野さんのアプローチは、周囲に「選ばれた人」しか残さないアプローチ。拡大家族である肉親が関係しない状態での安楽死には賛成できないという。
この本のメインである小島ミナさんは、安楽死を求める生き方しかできなかったのかもしれない。でも、それ以外の本に登場する人物たちは総じて「愛に飢えている」、つまりは孤独であるがゆえに死を希求している。「死とは患者だけが直面する問題ではない」と宮下さんは主張する。

一方の私は、自分の本の中で幡野さんに近いことを書いている部分もある。がんになって、周囲との関係性が崩れた時、それを再構築していくことが必要だと。それは周囲との関係を「選びなおす」ということでもある。
ただ、私の考えはあくまでも「再構築」であり、「選別」ではない。既にあった関係性(拡大家族も含め)を、医療者などサポートを受けて、作り直そうよ、というアプローチである。その結果として、孤独ゆえの安楽死については止められる場合もあるかもしれない。
うん、いかにも医療者らしい考え方ではないか。

ある人は、私たち3人の主張に対し
「幡野さんの意見は『時間が無い人の意見』、西さん・宮下さんのは『時間がある人の意見』。時間に余裕があれば周囲との関係性を再構築でもするかもしれない。でも時間が無ければ1日1日が貴重。今日できていても明日にはできなくなるかもしれない。だとしたら、選別はせざる得ないよ」
とコメントした。
このコメントには一理あると思いつつも、私はやはり「再構築する」というアプローチを続けるだろうなと思った。それは私が医者だから。

安楽死を求める声に対して、「自分なら安楽死はしないけど、人それぞれ色んな考えがあっていいよね」と言って、選択肢としての安楽死はあるべきだろうと主張するのは最悪だ。
それは「私とあなたとは違う。だからあなたは勝手に死んでくれても気にしない」というのとイコールではないかと感じるからだ。
本当に何かできることはなかったか、個人ではなく、社会全体として。小島ミナさんの件を取ってみても、出てくるのは家族ばかりで、医療者や難病の支援者や心理の専門家などはどのようなアプローチを試みたのか?というところはほとんど見えてこない。家族という枠の中に、小島さんたちは落ち込んでいったのではなかろうか。その枠が少しでも社会に向けて開かれていたとしたら?本当にできることはなかったのだろうか。

もちろん、それらのアプローチが行われていれば、小島ミナさんはスイスに行かずに済んだ、などと言う気はない。専門家やコミュニティによるケアが万能だとは思わないし、担当医でもない私が、それをことさらに主張するのはおこがましい。世の中に、安楽死があることでしか救われ難い人がいるというのもまた、事実だ。

でも私は医者だから、ずっと「再構築」のためのアプローチを続けるだろう。そのためのケアを続けるだろう。
「自分なら安楽死はしないと思うけど、あなたが安楽死をしたいと思うその気持ちは自由だし否定しないけど、私はあなたが安楽死をしないで済むようにできる限りのことをするからね、あなたの傍らで」
と私なら、こんな冗長な言葉で抵抗するだろう。もちろん、「善意という呪い」にならない範囲で。
それでもやっぱり、その人は安楽死をしてしまうかもしれないが、安楽死を求める人の傍らで、安楽死をしたいという気持ちを尊重しながらも、医師としてどう在ったのかということが自分には大切なのだ。
その在り方を追求した結果が、私が自著の中で記した「安楽死特区+全国ネットワーク」という考え方である。本来は相反するイデオロギーである緩和ケアと安楽死を結び付ける案だ。この案が最適かわからないけど、私はこれからも「安楽死を求める意志を尊重しつつも、安楽死をしないで済む社会システム」を考え続けるだろう。

1年前の対談から、3人とも考えが変わった。
幡野さんも変わったし、宮下さんも変わったし、私も変わった。対談の記録を読んでいただき、そして改めて3人の主張を比べて読んでもらえると面白い気づきがたくさんあるはずだ。
また次会った時には、3人とも考えが変わっているだろう。人間というのは移ろうものだし、それがいい。
この3冊を通じて、私はもう対談をしてしまったような気分だが、もしかしたら本当にリアルでの対談ができる機会もあるかもしれない。
その時が来るのが楽しみだ。
まず皆さんにはぜひ、3冊をまとめてご覧いただき、本を通じて行われた思想のリレーを味わってほしいと思う。


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