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05忘れてしまえるものならば(8)

 幸い、翌日には笹崎は目を覚ました。せん妄状態となって多少暴れたりはしたものの、それだけ元気になった証拠ともいえた。
 しかし、食欲については簡単には回復しなかった。もともと注意力が散漫で食事に苦労していた笹崎だったので、点滴の管や酸素のチューブが入った状態で、食事に集中できるはずもなかった。
 そうして入院してから14日目。亜桜が出勤してカルテ・タブレットを立ち上げると、画面の右端に点滅するアラート。ついにAI判定が「イエロー」になってしまったことの通知だ。
亜桜は黄色に光る表示を見つめ、しばらく固まっていた。これでまた息子たちに迫られたら、今度こそ安楽死準備の手続きを開始しなければならない。
――そういえば息子さんたち、あれ以来全然顔を見せなくなったな。
 訴訟の準備でもしているのだろうか。岩田からは、冷静な話し合いでとりあえず「イエロー」の判定が出るまでは、ということで落ち着いたというところまでは聞いていた。その「イエロー」の判定が出てしまった以上、もう一度連絡しないわけにはいかない。
「もしもし、電話交換? ちょっと患者さんのご家族につないでもらいたいのですが」
 亜桜は電話交換部に息子二人の連絡先を伝え、電話を取り次いでもらうように依頼した。次男の直人はともかく、太一郎の声は聞きたくなかったのだが仕方ない。しかし、20分後、電話交換部からの返事は「二人とも、何度も鳴らしても連絡がつきません」というものだった。時計を見ると9時を少し回ったところ。息子たち二人も、それぞれの仕事で忙しいのだろう。亜桜は後でもう一度かけなおすことにして、笹崎の様子を見に行くことにした。
 病室に入ると、笹崎はすやすやと安らかな寝息を立てていた。食事が摂れないこと以外はほとんど落ち着いている状態で、3か月前の彼女と何も変わっていなかった。亜桜がベッドサイドに近づき、聴診器を近づけると、その気配に感づいたのかうっすらと目を開けた。
「あ、すみません笹崎さん。起こしてしまいましたか」
「あら、おはようございます、先生」
「はい、おはようございます。昨日はよく眠れましたか」
「ええ、もうぐっすり……朝ごはんも美味しくて」
 3か月前も同じ会話をした気がする。
「ここがどこか、わかりますか」
「ここは病院でしょ」
 今日は多少、調子がいいかもしれない。それでもきっと、いまの笹崎に「AI判定で『イエロー』が出て……」なんて話は理解できない。亜桜は少し考え込む。
「あの、笹崎さん。笹崎さんは、これからどんな生活をしていきたいですか?」
「これから? そうねえ、子供たちとずっと一緒に過ごしたいわ」
 いつもと変わらない返事。タイム・スリップしていても、していなくても笹崎の答えは一緒だ。それであれば、やはりこれが笹崎の「いま」の本心と言えるのではないだろうか。亜桜は意を決して尋ねてみる。
「笹崎さん、すごくおかしなことを聞かれると思うかもしれませんが、いま笹崎さんはご飯があまり食べられなくて、少し体が弱ってきているんです」
「あらまあ、困りましたね」
 笹崎はひとごとのように呟く。
「それで、これからさらに体が弱っていくとしたら、できれば薬で寿命を早く終わらせてほしい……とかって考えたことってありますかね……」
 亜桜がおそるおそる口にすると、笹崎はしばらく黙っていたが、口の中でもごもごと「いやですねえ」と言ったように聞こえた。
「えっ? 笹崎さん、今なんておっしゃいました? すみません、聞き取りづらくて。もう一度……」
「できれば長く生きたいですよ。子供たちが困るじゃないですか」
 亜桜は、その言葉を聞いて胸に詰まるものを感じた。
「そうかあ……そうですよね」
「そうよ」
 笹崎はふふと笑って、また目をつむった。この言葉を、もう一度息子さんたちに投げかけてあげなくては、と亜桜は思った。

 病室から出て、亜桜がナースステーションへ歩いていると、病棟事務の女性が亜桜に声をかけてきた。
「あ、望月先生。いまお電話しようと思っていたんですけど、あちらに警察の方がお見えです」
「警察?」
 あっ、遅かったか。きっと、太一郎が裁判に訴えたのだろう。それで、警察が取り調べに来たのだ。
 病棟事務が指し示す方を見ると、50代くらいの大柄な男性刑事と、制服姿の若い警察官が立っていた。いつも、制度下安楽死施行後に取り調べに来る刑事だ。眉間に深い皺の寄った、彫りの深い顔をしており、マンガにでも出てきそうな典型的な「コワモテ刑事」だった。少なくとも「話せば見逃してくれる」タイプではない。
「あー……、あなたが望月亜桜さん? 笹崎今日子さんの担当の」
 手に持った書類を眺めながら、コワモテ刑事が低い声で話しかけてくる。
「はい、私が望月です」
「ちょっと、話を聞かせてもらいたいんですけど、今お時間ありますかね」
 亜桜は無言で頷き、二人を面談室に案内する。幼いころから度胸があることでは自信のあった亜桜だったが、どうも警察官は苦手だ。というか、得意な人なんていないとは思うが。
「初めまして。川崎中央警察署の郡司と申します」
 面談室に向かい合って座った刑事が名乗り、亜桜を見据えた。もう一人の警察官はドアのところに無言で立っている。逃亡防止だろうか。
「……少しお話を伺うだけですから。些細なことでも良いですので、覚えていることは何でも教えてください。分からないものは分からない、とおっしゃっていただいて結構です」
「はい……」
 亜桜はぐっと手を握る。手のひらにはすでにじっとりと汗をかいていた。

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