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「年寄りは、会話に飢えている」と語ったあのひと。

田口ランディさんのブログを読んで、この記事を書いている。
「地下鉄サリン事件の時には、生まれていませんでした」という若い新聞記者から取材を受けたという話だ。

私たちの世代は知らなかった大戦の記憶。
それを知る方々の多くはこの世になく、語りを受け継いだ人も多くはない。私たち世代はもう文字でしか、その大戦を知ることができない。そこにあるのは数字と事実ばかりで、言葉と物語は薄れつつある。
そして今、私たちが体験してきた歴史の体験、その生々しい記憶を共有できない世代が育ってきている。
私たちにとっては、東日本大震災で混乱する暗闇の中を逃げ惑った記憶は、昨日のことのように生々しいけれども、それすらあと10年もすれば、その体験を知らない世代が成人していく。言葉と物語が受け継がれなければ、いずれあの震災の記憶も文字になってしまう。

この田口ランディさんのブログを読んで、私は以前に受け持っていた患者さんのことを思い出した。
彼は、とある大企業の役員を務めた名士で、齢は90歳に近かったが背筋をピンと伸ばし、パリッとした身なりで外来に現れた。
その彼が、よく言っていた。
「先生には、私の言葉をたくさん聞いてほしい」
と。
若かった私には、その意味がよくわからなかった。いつもたくさん話を聞いているつもりだった。むしろ他の患者さんよりも時間をかけて、話を聞いていたくらいだ。
それでも彼は、ことあるごとに言った。
「先生には、私の言葉をたくさん聞いてほしい」

彼はがんだった。
最初の頃は元気に通院していた彼も、1年を過ぎたころには衰弱し、入院をした。それでも彼はよくしゃべった。私が病室に行くと喜び、いつも他愛もない話をした。
ある時、彼は「先生に、私の書いた本を贈りたい」と申し出た。その時、私はどんな顔をしていただろう。ちょっと困った顔をしていたのかもしれない。付き添っていた家族も、それを察してか
「先生もお忙しいから、ご迷惑になるでしょ」
とたしなめた。
「いえいえ、ぜひ拝見させてください」
と私は答えたと思う。でもその後、彼から本が届くことはなかった。

彼は、本の話をした数日後に他界した。予想以上に急な経過だった。
「先生にはいつも、たくさん話を聞いていただいて」
と家族は感謝の意を述べたが、私には釈然としない思いだった。
彼はどうして「先生には、私の言葉をたくさん聞いてほしい」と、何度も言ったのだろう。
でもその後、家族はこうも言った。
「先生の中に、自分のことを残したかったみたいなんです」
だから、持てる時間の全てをもって、言葉を伝えたかったのだと。

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私はいまも後悔している。
正直、半分眠っているように、彼の言葉を聞いていたのかもしれない。
「年寄りは、会話に飢えている」
と、語った方もいた。その飢えを、私は同じ温度で受け取れていなかったと思う。
『がんを抱えて、自分らしく生きたい』という本を書きたくなったのも、その後悔があったからかもしれない。先人の体験と言葉を受け継いで、次の世代にその言葉をつないでいきたいという熱をもった先輩たちがいる。バトンを渡そうと、必死に言葉の手をのばしている。それを受け取る側が半分眠っているようでは、バトンはこぼれ、地におちる。

彼の本を受け取ることはできなかったけど、彼の言葉は『がんを抱えて、自分らしく生きたい』に遺った。そして、それから出会った多くの患者さんたちの言葉も。
これから聴いていく言葉たちは、またどこかに遺していけるかはわからないけれど、少なくとも私の中には遺していきたいと思っている。
そしていずれ私も、次の世代に「私の言葉をたくさん聞いてほしい」とねだるのだろう。


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