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明治時代に「日本車」を輸出した男〜秋葉大助二代

 ベトナムで「シクロ」と呼ばれる三輪の乗り物は、日本で「発明」された人力車から派生した乗り物だ。客が乗る座席といい、雨や日差しを避ける幌、ゴム車輪や泥除けなどは人力車の面影を残している。タイの「サムロー」やマレーシアの「ペチャ」は人力車の前に自転車を取り付けたような形だが、ベトナムの「シクロ」は乗客の後ろに自転車の後輪を取り付けた形だ。ではベトナムに日本の人力車が導入されたのはいつだろう?

ベトナムの「シクロ」(人力三輪車)

 フランスの歴史書は次のように記述している。
 「道路は馬車が往来できるようになったので、ボンナル公使の発案で、1884(明17)年、日本から2台の手押し車“ジンリキシャ”を日本から輸入し、そのうち1台を総督に渡し、その後、それを見本として国内の職人に多数造らせた」("HANOI pendant la période héroïque (1873-1888)" M. PAUL BOUDET)

 他書では、ボンネル公使は1883(明16)年に日本からの人力車の輸入を許可し、1884年にはハノイのフランス人車両製造会社が50台ものコピー人力車を製造し、北部ベトナムを走行していたと伝えている。

 明治時代に「人力車」という「日本車」が仏領インドシナに輸入され、フランス人の手によってコピーされていた、という事実は「物真似上手」な日本人と揶揄されたその後の時代と考えあわせると興味深い話ではある。

 人力車はその起源において諸説あるようだが、日本では和泉要助らが明治2年に発明したものとされている。ただ、彼らの発案した人力車は客が乗車する周囲に「四本柱」があり、屋根を支える形であった。この不恰好な人力車を、乗り物として魅力的な形に改良し、爆発的に売れる商品にしたてあげたのは、初代・秋葉大助である。

東京日本橋風景:錦朝楼芳虎,孟斎芳虎 : 蔦屋吉蔵, 明治3(1870)

 秋葉大助は天保14(1842)年、江戸の馬具武具製造販売業の家に生まれた。戊辰戦争に際しては鉄砲と毛布を東北で売りさばき、大きな利益を得たとされている。

 「御一新」の時代に武士向けの馬具・武具の製造販売ではやっていけないと思ったのだろうか、彼は25歳にして東京・京橋区新肴町で馬車の製造を開始すると同時に東京川崎(横浜とした書物もある)間を馬車で乗客と荷物の運搬業を開始する。

 明治3、4年ごろから彼は「人力車」の製造を開始する。彼は箱型、四本柱の不格好な人力車を改良し、蹴込を設け、車体は船形にして漆を塗り、バネを取り付け、乗り心地をよくするほか、車体内部には布や革を貼り付け、金具の装飾で見栄えのよいものにした。おかげで注文は殺到し、販路は大阪まで広がり、同地で人力車のことを「大助車」と呼称されるまでにいたる。 

秋葉商店(「東京模範商工品録」より抜粋・国立国会図書館ウェブより)

 明治8(1875)年には輸出も開始され、英仏(植民地か?)に加え、シンガポールやインドにまで、市場を広げた。明治期に開催された内国勧業博覧会にも出展、鳳紋賞、有功三等賞を受賞、人力車等の製造業の組合である「東京諸車製造組合」の総代となり、議会や郵便局の馬車・人力車の御用もつとめる。

 明治27(1894)年初代大助が亡くなると、千葉県の味噌・醤油製造業の家に生まれ、横浜英和学校、東京商業学校(一橋大学の前身)を卒業した飯田信二を秋葉家の養子に迎え、2代目大助を襲名した。初代が亡くなって3年後のことであった。

 秋葉商店の2代目大助が仕事をはじめたころは、人力車産業の最盛期であり、日本全国で20万台もの車両が走行し、明治29年には全国の人力車製造台数はピークに達していた。

 彼は商業学校出身ということもあり、広告宣伝に力を入れ、勧業博覧会などにも積極的に出展、受賞すれば大々的に新聞で広告をうった。

 明治34(1901)年の秋葉商店の人力車生産台数は5,260輌にも及んでいたが、そのうち3,910輌はすでに輸出向けであり、国内の需要は減退しつつあった。明治20年代には貸自転車が流行、明治28(1895)年には京都電気鉄道が営業を開始、明治31(1898)年には海外から自動車がはじめて日本に輸入される、そのような時代であった。

 2代目秋葉大助は国内の需要減を輸出で補い、海外市場研究と華商経由で各国に販売されていたものを直貿易に変更すべく、明治35(1902)年9月から11月にかけて2ヶ月の海外市場視察の旅にでかける。彼は、天津、北京、上海、香港のほか、ハノイ、シンガポール、ペナンを訪れている。

1902年河内府万国博覧会のポスター

 ハノイでは仏領東京河内府万国博覧会(Exposition de Hanoi)が明治35(1902)年11月から明治36(1903)年2月15日まで開催され、秋葉大助は自社の人力車を出展し、銀牌を受けている。博覧会は現「ベトナム・ソ連友好文化労働会館」の場所にあったパライス・セントラルという壮麗な建物で行われた(仏印進駐時、日本軍の師団司令部となったため、米軍に空爆され焼失)。博覧会と同時に当時の建設土木技術の粋を集めたドゥメル橋(現ロンビエン橋)とハノイ/ハイフォン間の鉄道の開設も披露された。博覧会には日本の工業・工芸製品も多数陳列され、服部時計店は「掛時計」を展示している。

東京河内府万国博覧会会場(Palais Central)

 他の交通機関の発達に伴って人力車の国内販売が思わしくなくなると、ダンロップ社との提携でゴム製造を開始したり、フォード、シボレーなどの自動車の代理店も経営し、多角化を図るも失敗、ついに大正12(1923)年、関東大震災により本所にあった工場の全焼を期に会社を廃業する。

 明治初期から50年にわたり人力車という「日本車」を東南アジアはじめ世界中に輸出した男、秋葉大助二代。彼の人力車はこのベトナムで「シクロ」へと派生し、そしてそのシクロさえいまや「外国人観光客用」として営業が認められているに過ぎない。日本で発明、改良された人力車が「人力」から「内燃機関」へのイノベーションの荒波を超えられず衰退した歴史がある。今また「電動モーター」を動力とし「自動運転」へのイノベーションの荒波にもまれ、日本の自動車メーカーも再び岐路にたたされている。

<参考文献>
「人力車の研究」齊藤俊彦
「東京模範商工品録」中山安太 編(国立国会図書館蔵)
「東京日本橋風景」錦朝楼芳虎,孟斎芳虎 : 蔦屋吉蔵(国立国会図書館蔵)
「秋葉大助の人力車改良」小林習古画(Japanese Art Open Database)
「東洋農工技術博覧会報告書」日本貿易協會出品監督事務所編纂
”HANOI pendant la période héroïque (1873-1888)” M. PAUL BOUDET
"Exposition de Hanoi : Catalogue Officiel Metropolitain 1902"
 

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