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17世紀鎖国後にもトンキン(北部ベトナム)で活躍したキリシタン貿易商・和田理左衛門

16世紀末から17世紀初頭にかけて日本の朱印状に基づく貿易が盛んだった時代、ベトナム中部・ホイアンに日本人町があったことが知られている。しかし、北部ベトナム、当時は東京(トンキン)と呼ばれた地域と交易があったことはあまり知られていない。

16世紀、莫氏から政権を奪還した黎氏・阮キム(氵に金)は後黎朝を再興したが、その死後女婿・鄭検とその次男・阮潢との間に後継争いが生じ、阮潢はフエに追いやられた。以来、東京(トンキン)の鄭氏と広南(クアンナム)の阮氏との間で南北に分かれて約230年間の争いが生じていた。

1601年家康は阮氏に書状を送り和親外交を原則とする交易の開始を申し出、朱印状に基づく貿易が開始され、当時のフェイホ(現ホイアン)には日本人町・唐人街が築かれるまでに発展した。

鄭氏が治めるトンキンとも交易が開始されるが、朱印船貿易開始当初は港としては現在のゲアン省とハティン省の境にある興元(フングエン)が主だったようである。京都の豪商・角倉了以・素庵親子がトンキンとの交易を行い、船がその沖で遭難・救助され、その礼状が今も残されている。

家康に続き秀忠、家光と徳川幕府も時代を経るごとに、キリシタン弾圧と「鎖国」政策が強まる中で朱印船貿易は衰退し、日本人町も廃れていく。交易は出島に入港を許された中国とオランダの船によって続けられた。

1614年、秀忠名で「伴天連追放之文」が公布され、長崎・京都にあった教会は破壊され、修道会士やキリスト教徒が旧教国のポルトガルやスペインの植民都市であったマカオやマニラへ国外追放を受けた。

その追放されたキリシタンの中に和田理左衛門はいた。彼は肥前長崎の出身で、信仰に熱心であったのだろう、洗礼名をパウロと称し、妻のウルスラ(洗礼名)と共にマカオに渡った。

その後、彼はポルトガル船の代理人としての仕事を得、現ベトナム中部の広南に渡り、港(ホイアンか?)でシルクを扱いはじめた。1626年には妻を伴ってトンキンに移住し、シルクと銅銭の貿易取引を独自に開始した。

妻のウルスラはポルトガル人の通訳・仲介者として鄭氏との交渉に携わった。1637年に日本の出島からトンキンにやってきたオランダ船Grol号の航海日誌には"Uru-san"という日本人通訳の名前が記されているが、あるいはウルスラのことかも知れない。

1638年にはハノイから55km、ホン河の辺にあるフォーヒエンにオランダ東インド会社の商館建設する仕事を鄭氏に命じられ、それをきっかけとしてオランダ船を用いて銀の輸入も手がけるようになった。またトンキンを拠点として、マカオ、シャム(現タイ)、パタビア(現ジャカルタ)など、東南アジアをまたにかけた貿易を展開した。

交易のみならず、中国・オランダの起業家への投資も盛んに行うと同時に、義母から年間1000テール(中国の両、当時の国際通貨)ものお金を借り受け、オランダ船を利用して日本に商品を送る費用としたとも伝えられている。

オランダ人Karl Hartsuniekによれば、1648年フォーヒエンには2000もの建物が立ち並び、オランダ人、イギリス人、ポルトガル人、フランス人らが住んでいた。

1652年にはトンキン第二の高官の地位を獲得、外国人貿易を統括した。1653年には妻ウルスラが死亡、トンキンの教会にて盛大な葬儀が執り行われた。

外国人として最高の地位に上りつめ、王都郊外にも領地を設けたが、1667年死去と同時にその領地、財産は没収されたと伝えられている。

和田理左衛門の事跡については多くオランダ東インド会社(VOC)の資料によるところが多いが、理左衛門の名前が出てくるベトナムの資料があることを紹介しよう。

ベトナム宗教史家の大西和彦氏によれば、古くから陶器で有名なバッチャン村の住人の系譜『阮氏家譜』に「北国日本人、旧黎朝勅賜 (ちょくし)理左衛門参督署衛義郡公の子、名は著於(「ちよ」の音訳か)」の理氏瑤光(リー・ティ・ザオ・クォン)が「懐遠将軍総兵使司総兵事林寿侯」の阮成璋(グェン・タイン・ チュオン)に正夫人として嫁ぎ、2男3女をもうけたことが記録されているという。

また考古学者の西野範子氏によれば、朱印船貿易時代の17世紀前期に日本で珍重され高額で取引された茶陶「安南焼」は日本からの注文生産によることが認められるといい、その安南焼の産地であるバッチャン村と和田理左衛門の娘がその村の名士である阮家に嫁いでいることから、日本から注文生産を可能としたのは和田の働きがあったからだと推定している。

日本橋や日本人墓地が残るホイアンが朱印船時代の交易港としてよく知られているが、国外追放となったキリシタンから東南アジアをまたにかける貿易商へと数奇な運命をたどった和田理左衛門の事跡もこれからもっと知られるようになって欲しいと願っている。そのためには今後の研究が待たれる。

新妻東一 2020/08/30

<図版出典>
臨濟宗妙正寺派天球院「角倉船図屏風」
<参考>
松本信広「ベトナム民族小史」
朝日日本歴史人物事典「和田理左衛門」
菊池(阿部)百里子「ベトナム北部における貿易港の考古学的研究 : ヴ ァンドンとフォーヒエンを中心に」(同氏はオランダ東インド会社商館はフォーヒエンにないと結論づけている)
William Wray, “The Seventeenth-century Japanese Diaspora: Questions of Boundary and Policy”
Geoffrey Gunn, History Without Borders: The Making of an Asian World Region, 1000-1800
Dixon "Voyage of the Dutch ship Grol from Hirado to Tongking"
金永鍵「佛領印度支那東京興安に於ける舗客に就いて」(フォーヒエンには日本人町はなかったと結論づけている)
永積洋子「17世紀中期の日本・トンキン貿易について」
Huynh  Trong  Hien「環シナ海における近世日越関係史の研究」
蓮田隆志、米谷均「近世日越通交の黎明」
牧野元記「18世紀以前のパリ外国宣教会と ベトナム北部宣教」
柳堀素雅子「宣教師の見た日本ーキリシタン時代の資料をもとにして」
大西和彦「歴史と文化から見たベトナム人 〜人材育成と活用への心構え〜」
西野 範子「日本の伝世ベトナム茶陶〜施釉陶器の分類、年代観とその歴史的背景〜」





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