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東 猛夫

東 猛夫[アズマ タケオ]

東 猛夫(1878〜没)

経歴

本名金網正之助。明治11年9月15日、兵庫県八部郡兵庫村(現在の兵庫県神戸市兵庫区東出町)生まれ。生年月日については、明治14年1月1日の説が有る。
明治33年、旧制高等小学校を卒業後、しばらくは家庭にあったが、俳優を志し、新派俳優・福井茂兵衞一座に加入する。東猛夫(吾妻猛夫)を名乗り、神戸歌舞伎座で初舞台を踏み、約2年間の女形修業に励む。明治35年、木村猛夫一座に加入し、関西各座を巡業。明治37年、熱海孤舟一座に移り、神戸相生座など引き続き関西各座を巡業していたが、後に自ら一座を組織して九州地方を巡業。更には海を渡って台湾、大連にも進出した。特に、九州地方では名女形として多大な人気を集めたという。
大正4年、帰朝して、完成間も無い大阪楽天地の専属俳優となる。その傍ら、山川興行部製作の連鎖劇にも出演し、映画デビューを果たしている。大正5年、新派に戻り、再び台湾の巡業に出たが、幾ばくも無く帰朝し、初代村田正雄一座に加入する。大正6年、大阪楽天地に復帰。その傍ら、新派映画『春の辰巳』など、再び山川興行部、並びに天活大阪撮影所の各社製作の連鎖劇にも出演。同年、桝本淸の招聘により、日活向島撮影所に入所。小口忠監督『誘惑』をはじめ数多の作品に出演し、立花貞二郎、衣笠貞之助、小栗武雄、島田嘉七らと共に瞬く間に女形スターとなり、一世を風靡した。大正11年、田中榮三監督『京屋襟店』の試写後、藤野秀夫、衣笠貞之助、横山運平ら幹部俳優と連袂退社。元日活本社常務取締役だった石井常吉の引き抜きにより、國活巣鴨撮影所に移籍。大正12年、國活が経営難のため映画製作・配給を停止。阪田重則監督『愛情の極み』が最後の出演作品となった。大正12年9月1日に発生した関東大震災、並びに國活の映画製作・配給停止後は映画界を離れ、実演に走った。自ら一座を組織し、昭和2年頃まで佐賀劇場など九州地方、更には再び海を渡って青島、大連を巡業したのち、芸能界を引退した。得意の琵琶歌を披露した事もあったという。ジャーナリスト・桑野桃華によれば、引退後は群馬県内の某常設館で事務員に転身したとの事。また、劇作家・宇野信夫の回想では、昭和戦前期、実際に東に遭遇したそうで、その当時は既に老齢であり、玉の井で按摩師を営んでいたとの事である。
東の正確な没年月日は不明だが、昭和54年10月23日以前には既に故人であるとの事。享年不詳。

関連項目

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