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島田嘉七

島田嘉七[シマダ カシチ]

島田嘉七(1895〜戦後)

経歴

本名島田嘉七。明治28年8月14日、東京府東京市神田区(現在の東京都千代田区)生まれ。
島田の経歴には複数の説が有る。本名については、殆どが芸名と同じとする一方で、島田直七郎とする説が有る。生年月日については、明治25・26・27年6・8月14・19日の説が有る。また、出生地についても、東京市下谷区(現在の東京都台東区)、東京市深川区(現在の東京都江東区)、東京市京橋区(現在の東京都中央区)の説が有る。何れも判然としないが、学歴・職歴等から判断した。
明治41年、旧制小学校を卒業後、旧制東京中学校に進学するも中退。当時、東京座新派大合同に参入していた新派の大御所・伊井蓉峰の門弟となる。島田嘉七を名乗り、新冨座で初舞台を踏む。以後、伊井門下の若女形として、本郷座など地方各座に出演する。大正3年、初代村田正雄一座に加入し、約4年間俳優修業に励む。この間、下阪して嵐璃德一座に加入し、嵐璃文嵐璃丈は誤植)を名乗って関西各座に出演したが、旧劇の陳腐さに嫌気がさして直ぐに脱退。再び上京して初代村田正雄一座に復帰した後、荒木淸一座に加入。名古屋各座を巡業した。
大正8年、日活向島撮影所に入社。新派映画『破れ筏』で映画デビューを果たす。衣笠貞之助、東猛夫、小栗武雄らと共に女形スタアとして売り出す。大正11年、田中榮三監督『京屋襟店』の試写後、藤野秀夫、衣笠貞之助、東猛夫ら幹部俳優と連袂退社。元日活本社常務取締役だった石井常吉の引き抜きにより、國活巣鴨撮影所に移籍。大正12年、國活が経営難のため映画製作・配給を停止。牧野省三の招聘により、衣笠貞之助、横山運平、宮島健一、藤川三之助(藤川三之祐)らと共にマキノ映畫製作所(等持院撮影所)に移籍。男優に完全に転向し、美男スタアとして活動再開。大正13年、東亞キネマとの吸収合併に伴い東亞マキノ等持院撮影所と名称変更。後に退社し、川上吾郎、邦江弘久、松波美子(松井千枝子)らと共に映画製作・配給が再開された國活巣鴨撮影所に復帰。大正14年、國活が再び経営難のため映画製作・配給を停止。島田は東亞マキノに復帰せず、松竹蒲田撮影所に移籍。二枚目のみならず老け役も熟し、吉野二郎監督『椿咲く國』など数多の作品に出演。大正15年、新年宴会において、久米讓、筑波雪子、松井千枝子らと共に準幹部俳優に昇格。昭和2年には、同じく新年宴会において、水島亮太郎、堀田金星(井上金太郎)、市川松之助、吾妻三郎(吉頂寺晃)、東榮子、松井千枝子、石河薰らと共に早くも幹部俳優に昇格する。昭和11年、松竹蒲田撮影所が閉鎖。新たに竣工された松竹大船撮影所に異動となるが、次第に脇役・端役出演が多くなり、異動後僅か数ヶ月で退社。同じく元松竹蒲田の専属俳優だった小川國松、横尾泥海男らと共に実演に転向する。昭和13年、松竹大船撮影所の再起を図るも、実現せず。やがて時代は第二次世界大戦に突入、渡満して大陸各地を慰問した。
昭和20年、帰朝して長野県更級郡に疎開するも罹災。終戦後は芸能界を引退し、疎開先だった長野県更級郡で某石鹸会社に勤務していた。
昭和24年7月以降の島田の消息は不明。享年不詳。

関連項目

  • 日活向島俳優名鑑

  • 國活俳優名鑑(準備中)

  • 牧野キネマ俳優名鑑(準備中)

  • 東亞キネマ俳優名鑑(準備中)

  • 松竹蒲田・大船俳優名鑑(準備中)

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