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新井 淳

新井 淳[アライ ジュン]

新井 淳(1890〜1943)

経歴

本名新井淳一。明治23年1月10日、埼玉県児玉郡本庄町(現在の埼玉県本庄市)生まれ。
新井の経歴には複数の説が有る。本名については、新井淳[アライ アツシ]とする説が有る。生年月日については、明治21・22・24年1月10日とする説が有る。また、出生地についても、東京府東京市区部(現在の東京都区部)の説が有る。何れも判然としないが、学歴・職歴等から判断した。
明治36年、上京して旧制麻布中学校に進学。明治40年卒業後、商業を志して某簿記学校に進学。明治43年卒業後、しばらくは某呉服店に勤務し、番頭を務めていたというが、俳優を志し、新派俳優・初代喜多村綠郎の紹介により、藤澤淺二郎の門弟となる。新井淳を名乗り、本郷座で初舞台を踏む。藤澤淺二郎、關根達發と共に本郷座、中央劇場など関東各座に出演したが、後に高田實、初代喜多村綠郎、伊井蓉峰など新派の一座を転々とした。この間、本名新井淳一を名乗って活動していた時期もある。
大正3年、桝本淸の招聘により、日活向島撮影所に入所。新派映画『新ハムレツト』で映画デビューを果たし、敵役・三枚目役として売り出す。大正9年、日活向島第三部(新劇部)新設に伴い、森英治郎、林幹、大村浩造(大村敦)、中山歌子、酒井米子と共に異動。新井は日活向島第三部の主任となる。田中榮三監督『朝日さす前』などに出演したが、好評のうちに間も無く解散。大正11年、田中榮三監督『京屋襟店』の試写後、藤野秀夫、衣笠貞之助、東猛夫ら幹部俳優と連袂退社。元日活本社常務取締役だった石井常吉の引き抜きにより、國活巣鴨撮影所に移籍。大正12年、國活が経営難のため映画製作・配給を停止。大正13年、一時休養したのち松竹蒲田撮影所に移籍。島津保次郎監督『惡太郎』などに出演し、飯田蝶子らと共にユーモアのある性格俳優として頭角を現す。大正14年、新年宴会において、押本映治と共に早くも幹部俳優に昇格。昭和初年からは、名物・松竹蒲田ナンセンス映画には欠かせない重要な喜劇役者として、齋藤寅次郎をはじめ、島津保次郎、五所平之助のコメディ作品に多数出演した。昭和11年、松竹蒲田撮影所が閉鎖。新たに竣工された松竹大船撮影所に異動する。野村浩將監督『人妻椿』などトーキー作品にも脇役・端役出演するようになるが、かねてより吃りに悩まされ、徐々に出演作品が減少。昭和14年、島津保次郎監督『兄とその妹』に出演したのを最後に円満退社。芸能界を引退した。
晩年の新井の消息は不明だが、昭和18年2月28日、病死したと伝えられる。享年53歳。

関連項目

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