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川上吾郎

川上吾郎[カワカミ ゴロウ]

川上吾郎(1883~?)

経歴

本名波々伯部百外[ホオカベ モモト]。明治16年6月26日、福井県福井市生まれ。生家は元福井藩の士族であったという。学歴等不詳。
明治34年、俳優を志し、新派俳優・川上薰一座に加入。大川普一を名乗り、現在の京都府京都市中京区にあった大黑座(京極座とも)で初舞台を踏む。明治40年、一座を脱退し、広島県広島市の某座にて自ら一座を組織。独立にあたり、師匠・川上薰によって芸名を川上吾郎と改名する。近畿・中国地方を中心に巡業の旅に出たほか、新派・新劇の田舎廻りの諸劇団にも特別出演したという。
大正9年、映画監督・桝本淸の招聘により、日活向島撮影所に入所。映画俳優に完全に転向。阪田重則監督『山の老校長』などに出演し、山本嘉一、藤野秀夫、藤川三之助(藤川三之祐)らと共に立役・色敵役として活躍した。大正11年、田中榮三監督『京屋襟店』の試写後、藤野秀夫、衣笠貞之助、東猛夫ら幹部俳優と連袂退社。元日活本社常務取締役だった石井常吉の引き抜きにより、國活巣鴨撮影所に移籍する。大正12年、國活が経営難のため映画製作・配給を停止。関東大震災および國活の映画製作・配給停止後の川上の消息は明らかにされていない(目下調査中)。再び実演に走ったか、全く別の芸名で各社映画に出演したか、将又経営を立て直すべく國活に残留したかの何れかであると推測する。大正14年、日活向島時代からの旧知・島田嘉七を筆頭に、邦江弘久、松波美子(松井千枝子)、春日麗子らと共に映画製作・配給が再開された國活巣鴨撮影所に復帰。数本の作品に出演したが、年内には再び経営難のため映画製作・配給を停止、國活巣鴨撮影所も小笠原プロダクシヨンに売却された。村越章二郎・内田吐夢監督『戰爭』が最後の出演作品となった。同年、島田嘉七は松竹蒲田撮影所に移籍するが、川上は間も無く芸能界を引退。本名波々伯部百外に戻し、実業家・坂間好之助の斡旋により、國際活映(國活)株式会社の一般社員に転向した。昭和3年、同社取締役に就任。主に海外映画の輸入や常設館、撮影所の賃貸を担い、昭和11年に國活が買収・解散するまで長く在籍した。
昭和11年10月以降の川上の消息は不明。享年不詳。

関連項目

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