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正論について考えていたら、正論は必要ないと思った話

プロジェクトの初期段階や、制作物の出し戻しなど進めていると、もらった依頼書の内容やフィードバックについて「?」と思ってしまうことが多々あったり。社内でも部下が作ってくれた資料などに対して「?」と思うことが日常茶飯事で起こっている。

大体は意図をすり合わせれば「あぁ、そういうことね」と事情を察し、意図を汲み、それをデザイナーやエンジニアと共有・理解をもらって進めることが普段ですが、たまにどうしても言いたい(または言わなければならないと思う)正論ってあると思うんです。ただ、正論と思うこと自体そもそもストレスに感じる部分もあったりして、少し調べてみた。

■ そもそも「正論」と、正論を振りかざすとき

wikipediaで調べてみると、以下のように書いてあった。

正論(せいろん)は、道理を説く論について正しいものであると評価する呼び方である。事実に関する議論や認識論について用いられることはあまりなく、ほとんどの場合が「**であるべきだ」という当為についての論である。そのため、論の対象は道徳、倫理や規範、政策など、公共的な要素をもつものが多い。
実際の用法として多く見られるのは、多数が流されている状況に対する正しい少数派的意見、価値の多様化に対する堅くて古い感じのする常識意見、というニュアンスの評としての用法である。ただしこの種の範囲に限るわけではない。
問題に対する最適解ではあるが、現実離れしている場合に論者への指摘として用いられることが多い。

自分の場合、自分が常識だと思う仕事の仕方に対して意見が言いたくなるときに発生するものが正論にあたる

自分の常識と、相手の持つ常識は違う。

つまり正論を言いたいときは自分か相手の持っている情報の質か量がイコールの関係性に無いときや、摩擦が発生するときに調整を行うための方法論と考えた。そう捉えれば後はコンセンサスの取り方としてどうするべきかを考えればいいだけなので腹落ちした。

■ 良くない正論

一方、正論だと思って実用したときを思い返すと「あれ?これただマウントを取りたがってるんじゃね?」と。 思わされた。

マウントを取りたがるときに関しては、去年あたりオードリー若林さん面白い記事を思い出した。

「戦後ずっと、日本人って豊かな生活を目指して生きてきたと思うんです。でも、バブルが弾けてから、ずっと何を信じていいか分からない、人生のベースがない状態が続いてきた。
それで、ベースがないまま、誰が正しい、何が正しいってマウンティングが盛り上がっちゃった。信仰心も薄い国で、考えの芯になるものが未だにないから、生きていていつも大変だと思うんですよ。自分の意志だけを信じて生きていくって、まぁ難しいですからね。
芯となるものはこれだと提示する、意志の力が大事なんだってビジネス書や自己啓発書が売れてますけど、書いているのは『ぶっとんだ人』ですよね。それってごく一部の成功者だからできることで、個人的にはあんまり興味を惹かれないんです。
テレビでも、自分ひとりの物事の捉え方や価値観ってそれぞれ違うのに、『あなたにもやりたいことがあるはず!』って、決まった成功の仕方を示そうとする番組もよくある。けど、『いや、本当にそうかな』って疑問に思うことも多くて。
何が正しいとか、優れているとか、そういうことじゃなくて、もっと自由に、素直に自分な好きなことに没頭できる人生が面白いんじゃないかって。そんなふうに、世の中の価値観が変わってくれば楽しくなると思うんですよ」

マウントを取りたがる場合については、基本的に自分が「弱い」ということが前提で、それをプライドが邪魔するという状況が彼の場合多かったらしい。自分も弱い人間なので、とても共感できる。

つまり、自分を強く見せたいという欲求がこもった場合に使われる正論は正しくない正論だと思う。

また、ググって検索してみると、こんなコラムも見つけたので引用させていただく。

人は答えを自分でつかみたい生きものなのかも知れない。
なぞなぞで、もう少しで答えがつかめそうな時、正解を言われたら相手を怨むだろう。

正論を拒むのは、人間の本能かも知れないと私は思うようになった。

正論は強い、正論には反論できない、正論は人を支配し傷つける。
正論を言うとき、自分の目線は、必ず相手より高くなっているからだ。

望んでもいない相手に、正論を振りかざすのは、道行く人の首根っこを捕まえるような暴威だ。

言葉は関係性の中で相手に届く。

ここで気づいた、そもそも正論が使われる状況は、関係性ができていない相手に対して使われるときであって、関係性をしっかりつくっていれば正論なんて必要ないんじゃない?

たしかにそうだ、自分の場合、普段から正直に話しており、砕けた会話をしている社員や雑談のできるクライアントとは、なにも考えずに「こう思うんですよね〜」と話せている気がする。し、仮に多少どちらに瑕疵があったとしてもそもそも論に戻ることなく、仕事が楽しいと思えている。そもそも相手に対してではなく、自分自身の認識の問題に行き着いた。前述に書いた担当者の癖も、自分が勝手に苦手意識をもっているだけ。変に正しいと伝えることよりも、どんな相手に対しても正しくいようとすることが大事なのか、、

まとめると、
・正論は自分と相手とで持っている情報の量、もしくは質をイコールに正すことが重要
・自分の発言する情報は本当に正しいのかをしっかり考える
・承認欲求がこもった場合に使われる正論は正しくない
・普段から相手と関係構築ができていれば、そもそも正論なんて必要ない

というお話でした。