【観じて想う#023】聖域について
昨日は時折風があったものの概ね穏やかな天候の一日で、打って変わって今日は朝から雨模様、さすが「春分」、そしてなにより「お彼岸の中日(個人的には"なかび"と呼びたい)」である。
私も、とあるお寺さんにお参りに伺ったのだが、祝日の人出で賑わう外気の陽気さから、門をくくぐると空気が一変するのが感じられる。
これが、族から一線を画した聖なる場所に足を踏み入れるということだと改めて感じる。
時間が時間だったせいか参拝の人々も少なかったのだが、比較的若い人が多く子供の姿もあった。
作法に則って静かに参拝する子供の姿から普段からお参りをしているのだろうと察したが、私自身が子供の時には(あくまでも記憶にある中では)我が家にはこのような習慣はなかった。
仏教のとある宗派が浸透し熱心な信仰が根付いている地域に住んでいた頃も、冠婚葬祭以外では接点がなかった。
高校生になり夏目漱石に傾倒するようになってから、作家を通じて仏教に触れたのだが、「(信仰を持ちながら)なぜ主人公は悩むのか」が当時はピンと来ず、"宗教を信仰する"とは観念的なものなのだと簡単に片付けていた。
その後、途中で哲学に出入りしながらも、20代30代そしてつい最近まで、無自覚なまま唯物論をベースに生きてきた。"聖域"である『宗教』をある種の好奇心を持って横目で眺めながら。
だが、数年前からこの"物質界"で(あくまで自分で思うところの)努力/注力しても叶わない/達成できないことが諸々立て続けに起こった。
これはなにかおかしいと薄々感じながらも、生来のアタマの固さから"聖域"に向かうことはなく、恐る恐るヒト(というか自身)へ右脳的アプローチを始めたが、不完全燃焼というのか何かが足りない。どうしても右脳的な事項を左脳的に扱ってしまう。まるで無目的にランニングマシンに乗っているかのようで、無駄に疲弊し拗ねて世間を恨んでいた。
そんな頃、様々なご縁があり、この"聖域"にようやく向かうことになったのだが、自身には相変わらず"嫌な"出来事が続き、実際やりきれなかった。
だが、ご縁をいただいたとある方の「(私は)守護霊様に守られている。その方が『よく頑張ったね』と優しく労ってくれているから、毎日感謝を伝えなさい」というアドバイスに支えられて、"聖域"に正面から向き合うようになった。
その時のことを思い出すと今でも涙がこぼれるほどで、この上ないご褒美を頂いたのだった。
特定の宗教を信仰しているわけではないが、あらゆる"聖域"は、常に開かれた、私の還る場所なのだということは確信している。