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寂しいから、付き合う

生まれた時から、人に囲まれて生きてきた。みんな最初は何もかもが自分1人でできなくて、食事も排泄も他人に依存した脆い生き物だった。見離されたら、生きていけなかった。

歩きはじめの一歩は、それだけで周囲が喜び笑う。もう少し大きくなって幼稚園や学校であった出来事を誰かに話すと、その出来事は伝わったことを嬉しく思うようになる。そして、ご飯を食べれば「美味しいね」って味だけではなく感情を共有する毎日を繰り返すようになる。家族と密接に関わっていた。

時間は経過する。だんだん家族それぞれが忙しく、みんなでテーブルを囲んだり、どこかに旅行に行くことは減る。同じ家に暮らしていても、個々の生活をするようになる。そして日常に染み込んでいた人との関わりが希薄になることは、一人暮らしなどをきっかけに一気に加速する。いつアパートに帰っても誰にも咎められない自由と引き換えに、無意識に存在していた自分以外の個体がいなくなる。

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きっと人は誰もがそれぞれ自分勝手で、めんどくさくて、独りよがりで、それでも誰かを欲する。その根底には、寂しさがまとわりついている気がする。生まれてから当たり前に存在していた、他人を欲するという気持ち。ひと通り、独りという自由を味わった後にはまた、今日あった出来事を誰かに話したり、相手の今日あった出来事を聞きたいフェーズがやってくる。会話という言葉のやりとりが何を生むのか、そんなことを考えずにただただ過ぎていく時間が尊い。

寂しさとの向き合い方は人それぞれだ。お金だったり、友人だったり、宗教だったりする。ただ、交際するということは手っ取り早くこの欲求を満たせる手段だと思う。誰かを好きになって、その人も自分の知る限りでは自分のことが好きであるということは奇跡のようにも思う。

もちろん、交際や結婚には生物として次の世代を残すとか、そういう別軸の必要性もなきにしもあらずだ。生まれながらにして与えられてきた愛情を今度は誰かに与えたいと思う。人生は自分のために生きていくためには、あまりにも長すぎる。

私は、他人に依存している自分を認めたいのかもしれない。

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ただ同時に、ここまでみんながみんな同じように感じているとは限らないことは、肝に銘じなければならない。

私は、人が好きで時にそれが悪く働いてお節介に転じることもある程だと自覚している。私みたいに人と関わることが好きな人もいるだろうけど、寂しさを感じることなく飄々と生活していく人もいるかもしれないな、とは思う。

自分自身としては、ある程度誰かに迷惑をかけて迷惑をかけられて、依存して依存し合うということが健全であると思っている。人は、とにかく社会性に長けた動物だから、誰かを悲しませて喜ばせて助け合っている。

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時に交際中のふたりの関係性は歪む。役割としてではなく、関係において不均衡が起きて、どちらかが優位に立ったりする。そうすると、破綻してうまくいかなくなってしまう。

交際において大切なのは、その対等性だと思う。数字としてどれくらいの時間を共有するかどうかとか、同じ場所にいるとかそういうことはあんまり関係ない。ただ相手を尊重して、互いに影響しあっていることに自覚的になって、そこに罪悪感ではなく自信を持った時にうまくいく。歯車はきちんとあって回り始める。

その先に、子供が欲しいとか子育てしてみたいという感情が、浮かんでくると思いたい。もちろん、愛情を与える相手がまた新たに欲しくなる気持ちはあるけれど、そればかりが先行してしまうと、交際がただの手段になってしまって、なんだかロマンがない。

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考え過ぎた。好きな人が自分を好きになってくれたら、それで何でもいいじゃん。つまり、私は彼氏と別れたので、一旦勉強と趣味に没頭しようとしているのに、寂しがりということです。

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