じいじのお雑炊 #キナリ杯

 お正月の実家の食卓には鍋が二つ並ぶ。一方の鍋では「かにすき」を、もう一方では「てっちり鍋」を楽しむのが我が家の定番だ。

 手前には、その日の朝に弟夫妻が大阪の台所「黒門市場」で仕入れてきた新鮮なカニが大皿からその手足を突き出して積み上げられている。右には、まるで大輪の花のごとく美しく盛り付けられたてっちりが。左には実家で取れたシャキシャキの水菜、ご近所さんからいただいた XLサイズ長ネギ、東京のスーパーでは絶対にお目にかかれない肉厚な椎茸に、どっしり重たい焼き豆腐とマロニーちゃんもスタンバイ。

 両方の鍋から立ち上がる湯気と石油ストーブが発する熱と、お正月というだけで勝手にあがってしまうテンションで部屋の温度はヒートアップ。さぁ、年に一度のごちそう。家族みんなで舌鼓をうつ。「お行儀よくし!(お行儀よくしなさい)」「手で食べな!(手で食べちゃだめ)」河内弁で子供たちをしかる私と義姉に、無口に鍋奉行に徹する弟。台所ではテキパキと準備する母。これが実家のいつものお正月。

 ただ、今年は違う。この混沌の中心にいた父がいない。

一年前のお正月も、私たちは恒例の鍋を囲んでいた。父はその秋に肺ガンの手術を受けた。しかし、術後すぐ、腹部にもはや手のほどこしようのない転移が見つかり自宅で緩和治療をしていた。食べる量は格段にへり、別人のようにやせ細っていた。そんな父には、お正月の定番メニューの「かにすき」と「てっちり鍋」はとうてい無理な代物。それでも父はいつもの席にすわり、私たちがフグやらカニやらをホフホフとほおばる姿を静かに、あたたかく眺めていた。その瞳は、生きる力こそ失いつつはあるものの、にこやかでまるで自分も一緒にフグやカニを食しているようだった。

 見かねた母が「お父さん、お雑炊なら少し食べる?」と声をかけると、「そやな。」と父は嬉しそうにうなずいた。

 「お雑炊」。それは、ほぼ空っぽになった鍋にご飯と残りのお野菜をぶち混んでふわふわ卵でとじただけの我が家のシメの定番。フグとカニのお出汁に栄養がぎっしりつまった私たちの大好物だ。母はそれを、食べやすいようにと、父の分だけお野菜をいつもより小さく刻んだ上に、カニやフグをわからないくらい細かくしてお茶碗によそってあげた。それはまるで離乳食にも見えるお雑炊。ゆっくりと小さなひとさじを口にした父は、「いやぁ、いい出汁でてる。こりゃほんまにおいしいわ。」と目を細めた。また一口食べるとゆっくりと咀嚼し、体の中にとかしていくように口を動かす。そして時間をかけて、父はお茶碗のお雑炊を完食した。孫たちは「じいじ、すごい!全部食べた!」と拍手でたたえた。

 空っぽになった二つの鍋を前に「ごちそうさま」をいいながら、私たちはこのお雑炊が父に生命力を与えてくれることを、父が奇跡的に回復してくれることを心から願った。

 しかし、父はその3週間後亡くなった。あのお雑炊が最後の晩餐となってしまったのだ。それまでは一日にすりりんごちょっとだけしか口にできなくなっていた父がお雑炊をお茶碗一膳完食したのは母には驚きだったそうだ。それに、父はなくなる間際まで、あのお雑炊が本当においしかったと繰り返していたらしい。

 来年のお正月も実家には同じ鍋が並ぶだろう。そしてあのお雑炊でしめるだろう。皆で父を、じいじを想いながら。


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