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きっかけのコーヒー

きっかけのコーヒー

私は、2018年1月からコーヒージャーナル(Coffee Journal)というサイトの運営を始めた。そこで始めるに至った経緯と、これまでのコーヒーの体験を記しておこう。(以下、敬称略)

私が子供の頃は、ちょうど小室 哲哉が全盛の時代だった。私は天邪鬼なので、メジャーな小室 哲哉ではなく、マイナー(?)な坂本 龍一の熱心なファンだった。坂本 龍一は今でこそメディアへの露出が多いが、当時は露出が少なく、出演しているテレビ番組や本を探して見ていた。

ちなみに、坂本 龍一はコーヒーをしばらく止めていたらしいが、がんに良いということで再開して、NOZY COFFEEと仕事をしていたこともあった。

坂本 龍一・村上 龍『EV.Cafe 超進化論』という本を近所の本屋で見つけ、買って読んでみた。そこで、柄谷 行人や浅田 彰、吉本 隆明という人の存在を知り、今度は彼らに興味を持って、彼らの本を読み始めた。

柄谷 行人の本で最初に読んだのは、『マルクスその可能性の中心』だった。当時は読んだところで理解できるわけもなかったが、『EV.Cafe 超進化論』や『マルクスその可能性の中心』を読んで、「なんかよくわからないけど、自分の全く知らない世界がある」と感じたことは記憶に残ってる。これが中2、中3くらい。当時オウムの事件があって、中沢 新一が戦犯扱いされたり、浅田 彰が「バカが暴走するとああなるだけ」とか言っていて、後に二人がオウムついて対談(しかもその雑誌が『諸君!』)を行った、そういう時代だった。

若い頃に読書をして、「なんかよくわからないけど、すごい!」とか「もやもやしてたけど、知りたかったことはこれだった!」みたいな体験を何度かしたことが、その後の知的好奇心の基礎になった。

柄谷 行人や浅田 彰を読んでいたせいで、ヘーゲルはダメでマルクスが凄いんだとか、社会学はダメなんだとか、そういう思考を刷り込まれた。だいたいオウムくらいから、日本では現代思想が凋落して社会学が優勢になるのだが、私の読書は前述の理由で社会学は無視して、最初に現代思想から入って、その後に古典を読んで、最後に文学に向かった。

最初は文学の明晰ではない感じが好きではなかったが、明晰さとロマンティシズムを両立させたような一部のフランス文学やドイツ文学に魅了されたことで、文学に興味を持つようになった。

少し後のことだが、『必読書150』が出版され、そこに名前の出てくる著者の本をすべて読むこともした。『必読書150』の帯で、柄谷 行人が「これを読まなければ、サルである」と言っているが、この本は今でも読書の道標になるだろう。

当時は、マルクスに関する本やランボーを始めとするフランス詩を熱心に読んでたので、コーヒーのことも頭の片隅にあったような気もするが、かといってコーヒーの本を読んだことはなかった。柄谷 行人がNAMをやってた時に、「フィリピンのバナナをフェアトレード」とか言ってたらしいが、今にして思えば、彼らは現実の商品(バナナやコーヒー等)について詳しい知識があるわけでもなかったはずなので、コーヒーみたいな現実の商品から理論を問い直すみたいなことはできるだろう。

コーヒーのサイト

私が初めてコーヒーを飲んだのは20歳の時で、そのコーヒーはジョージアの「エメラルドマウンテン」だった。コーヒーは不味いイメージしかなかったが、「意外と美味しいな」と思った記憶がある。その後は、コーヒーは飲んでいたが、コーヒーについて何も知らないという期間が長かったので、今でも一般消費者の感覚がわかるつもりではある。

そこから話は飛んで、2017年12月の終わりにふと、新年から自分の実力試しに、何か新しいことを始めようと思い立った。そこでいくつか条件を挙げた。

挙げた条件というのは、

・自分に知識がなく、社会的にもあまり知られていないであろうこと。

・文学や歴史とつながりがありそうなこと。

・他の人がやろうと思っても、容易には真似できないこと。

コーヒーは飲んではいたが、全然知識がなく、味の違いなども意識したことがなかったため、コーヒーについて探求してみようと思い立った。私の場合、コーヒー好きにありがちな、どこかで飲んだコーヒーが美味しく、それに感動してコーヒーに目覚めたというわけではない。何かをきっかけにコーヒーを始めたというよりも、何かを始めるきっかけがコーヒーだったため、コーヒーを始めたこととコーヒーの探求(サイト)を始めたのは、全く同期している。

2018年1月から、実際にコーヒーのサイトを始めてみたものの、当然コーヒーの知識もなければ、コーヒーに関する文章をどのように書いたらいいのかもわからず、「さて、どうしたものだろう」と立ち止まった。しかし、始めたからには何かをしなければならない。この頃は、許し難い稚拙な文章を大量に書かなければならないこと、正しいのか間違ってるのかよく分からないが、とりあえず何か書いてしまわなければ先に進まないことに、心理的抵抗と躊躇があった。

すでにサイト上には、何百万字の文章があるはずだが、大量に文章を書くことは反復練習みたいなもので、わずかな変化から新しい発見が更新されていく。私にとってこのサイト全体が進行中の作品みたいなもので、本のような形式を定まっていて、内容を変更できないメディアでは不可能な創造が可能であることも新しい発見だった。ただインターネットの歴史自体浅く、サイトやブログは本のような権威がないため、このようなことが理解されて、評価されるのは時間がかかるだろう。

割と最初の頃から、サイトを今のような形にするというイメージはあって、形式と内容全体が連関するように少しずつ構成してるが、これはコーヒー以外のテーマでも同じように活用できる。

コーヒーに戻ると、まず最初の頃は、どこでコーヒーを買ったら良いのかがわからなかった。喫茶店やカフェは、近くに座った人の会話を強制的に聞かされるのが嫌で好きじゃなかったので、喫茶店やカフェもよく知らなかった。

コーヒーのサイトを始めた最初の頃から、たまたま見つけた「丘の上の珈琲」という自家焙煎店にコーヒーを買っていた。これは後で知ったことだが、店主の武山 敬二は「リヒト珈琲」に大学生の頃に通って、襟立 稔規に焙煎したコーヒーを見てもらっていたらしい。襟立 稔規は、大阪「なんち」の襟立 博保の三男で、知る人ぞ知る存在だったが、リヒト珈琲は地元にあったのに一度も行ったことがないまま閉店した。

コーヒーについて調べていると、東京四天王と呼ばれる店があるとか、「大坊珈琲店」の大坊 勝次や「カフェ・バッハ」の田口 護という人が有名だと知った。その流れで『コーヒーの科学』の旦部 幸博を知り、「ミカフェート」の川島 良彰はコーヒー店の人から名前を聞いて知ったように思う。

思い返してみれば、昔カフェ・バッハのすぐそばのホテルに泊まったことがあったが、当時カフェ・バッハなどという店のことは知らず、おそらく素通りしている。

旦部 幸博の「百珈苑」と「百珈苑BLOG(はてなブログ版)」(お洒落な名前!)を読んでみたが、百珈苑BLOG(はてなブログ版)のほうは難度が高すぎて、もう少し勉強してからでないとわからないなと思った。それから鳥目散 帰山人(なんて読むんだこの名前)という人を知って、「帰山人の珈琲漫考」というブログを一見した記憶があるが、これも当時の知識では何を書いているのかよくわからなかったため、そのまま読み流した記憶がある。

コーヒーの本

とりあえずコーヒーの知識を得るために、コーヒーに関するまともそうな本にいくつか目星をつけて、『田口護の珈琲大全』を読んだ。これが初めて読んだコーヒー本で、勉強になったが知らないことばかりだったので、書いてあることがあまり記憶に残らなかった。次に読んだのは、『田口護のスペシャルティコーヒー大全』だった。当時はコーヒーのことがよく分かってなかったので、「なんか似たような内容だな」と思った。

その次に読んだ本は、山内 秀文『ALL ABOUT COFFEE コーヒーのすべて』 だった。William H Ukersの『ALL ABOUT COFFEE』は、初版が出版されて今年(2022年)で100年を迎えたが、コーヒーの全体像を網羅した本は、『ALL ABOUT COFFEE』以降、一冊も出版されていないこともわかった。

これは当初の予想通りの部分があるが、コーヒーについて調べていくうちに、コーヒーを趣味にする人は数多いが、コーヒーに対して学問的な興味を持っている人はほとんどいないこと、逆に、コーヒーは商業的すぎて、学問として取り扱うのは難しいこと、コーヒーの世界は広大で、研究対象がさまざまな学問分野に及ぶので、体系的な情報を得る手段がほとんどないこと等、が徐々に見えてきた。

「商業的な目的以外で」コーヒーを学問することは、社会的にうまく適合する場所がない。コーヒー業界には利益相反があり、学問の世界にとっては商業的すぎ、一般消費者には学問しなければならない動機も手段も必要な資金もない。

コーヒーを学問することと、コーヒー・マニアになることは、私の中では明確に異なる。例えば数学を勉強する場合は、円周率は3.14と覚えてすぐに次に進むのが合理的だが、マニアは「円周率1万桁覚えました」みたいなことを好む人たちのことを指す。「円周率覚えるのが趣味なんです」という人は良いが、「数学の勉強しようと思ったら、いつの間にか円周率1万桁暗記してました」という状態は良くない。学問や研究においては、情報をどこで切断するのかが重要なわけだが、知らない間に袋小路にはまり込んでいることを「沼」と称することには問題がある。

スペシャルティコーヒー

少し経った頃に、高級コーヒーも飲んでみたいと思い、地元で高級コーヒーを提供している店がないかと探した。そして見つけた「カフェ・ランバン」という店を訪れた。

当時は、国名、地域名、農園名、精製所、品種、精製方法、商社がつけるロット名等の区別ができなかったので、お店にまったく聞いたことのない名前のコーヒー豆が並んでいることに、まず知的好奇心を刺激された。後で知ったことだが、カフェ・ランバンはアタカ通商という商社の希少ロットの取り扱い量がおそらく日本一多い店で、希少なコーヒーというのがまた知的好奇心を刺激した。

ちなみに、アイコンに使っているセントヘレナのナポレオンのシールは、デヴィッド・ヘンリーのセント・ヘレナ・コーヒー・カンパニーのもので、アタカ通商に一つだけ残っていたものを、カフェ・ランバンを通じて頂いた。

購入したコーヒーの生産国や地域、ロット名などを頼りに、インターネットで色々調べてみたが、コーヒー生産国は、日本ではコーヒー以外でほとんど話題になることがない国ばかりで、コーヒーの知識がない状態では、単語や説明がどういう文脈で何を意味しているのかがわからなかった。例えば最初の頃は、インドネシアのコーヒーに関して、「アチェ(生産地) ハズビー(コレクター)」、「マンデリン(ブランド名) グラン・レイナ(ロット名)」、「ワハナ(農園名) ロングベリー(品種名)」などと区別することはできなかった。

しかし、場所の名前が行政区分なのか地理区分なのか、組織が定める区分なのか、どの国にどのような組織があって、それぞれどういう役割を果たしているのか、国によって流通の仕組みの違い等を判別することが重要だということが徐々に理解できるようになった。

例えば、グアテマラのハイランド・ウエウエ(ウエウエテナンゴ)は面積が広いため、自前で精製所を持っている農園が多いが、アンティグア・コーヒーの小さい農園は大きい精製所に精製してもらっていることや、逆にコスタリカでは、マイクロミル(精製所)がその下に農園を持っていて、マイクロミルが輸出業者とパートナー関係にあること、そういう関係性は大分後になってから理解できるようになった。

コーヒーについて調べる上で最初に苦労したのは、農園主や地域名のカタカナ表記だった。歴史上の人物ならともかく、どこかの知らない農園の農園主の名前をカタカナで表記されても、アルファベットの綴りがわからないと調べようがない。そのため、サイトでは、カタカナ表記とアルファベット表記を併記するようになった。また、比較的大きい農園だと、ホームページを持ってる農園も多いが、農園名で検索しても検索結果にホームページが表示されず、経営している会社名で検索しなければ見つからないことも最初は理解できず、苦労した。

しかし、このようなことをあれこれ調べられるようになったのは、スペシャルティコーヒーの発展によって情報開示されるようになり、それ以前ではわからなかったことが、インターネット化と並行して検索可能になったことが一番大きい。かつては外国語の書籍など数少ない情報源を頼りにする他なかったので、先人の苦労が偲ばれる。

スペシャルティコーヒーを数多く飲むようになり、スペシャルティコーヒーには、確かに多様な味わいがあるが、驚くほど多様でもないということがわかってきた。やがて味の微妙な差をロットの情報(国名、地域名、農園名...)と結びつけ、その差異が孕んだ情報に楽しみを見出すようになった。

スペシャルティコーヒーの運動はアナーキズムに近く、これは「選択の自由」を謳う市場万能主義と親和性が高い。最近流行り始めたコーヒーのマッチングみたいなサービスも、まさに「選択の自由」を発展させたもので、個人が選択しているように見えて、その実プラットフォームによって選択をさせられているという逆説がある。これに、スターバックスやネスレのようなボリシェヴィキ的な中央集権型の巨大資本をアナ・ボル論争的に対置するならば、歴史的に見てどちらが勝利するのかは見どころであると思う。

パナマ ゲイシャ

私はスペシャルティコーヒーの価値の最高の結晶は、パナマ・ゲイシャの発見と流行である評価しているが、初めて飲んだゲイシャは、カフェ・ランバンのパナマ エスメラルダ農園 ゲイシャだった。他のコーヒーの何倍か高いので、「なんだろう?」と思って購入したことがきっかけだった。

家で飲んでみると、これまでのコーヒーと全然異なった印象を受けた。最初は美味しいというよりも、フレーバーが強烈で変わっているという印象で、「なんだこれは?」と思った。その後、店でも飲んでみたが、やっぱり変わった味だと思った。

エスメラルダ農園 ゲイシャという凄いコーヒーがあるんだなと思い、インターネットで調べてみると、サザコーヒーがエスメラルダ農園 ゲイシャのベスト・オブ・パナマという品評会のロットを販売していた。これを購入し飲んでみると、これが輪にかけて圧倒的なフレーバーを持つコーヒーだった。

ゲイシャの場合、初めて飲んだロットがハズレだと、「大したことないな」という評価になるが、私が飲んだロットは、今思い返しても良いロットだったので、幸いだった。ただ、エスメラルダ農園 ゲイシャは、ゲイシャの味の典型だとは評価していない。私の中でゲイシャの味の典型は、ソフィア農園のウォッシュトで、この農園のゲイシャは、ジャスミン、ベルガモット、ピーチの味が最もクリーンに表現されている。ちなみにソフィア農園は、エスメラルダ農園 ゲイシャがベスト・オブ・パナマのナチュラル部門で第1位に輝いた2017年に、ウォッシュト部門で第1位に輝いているが、サザコーヒーが販売していたこのロットは買いそびれた。

その後、2020年にベスト・オブ・パナマに出品された50ロットを全て飲むという経験ができたが、品評会の順位のつき方は概ね妥当だと思った。「なんでこのコーヒーがこの順位なんだ?」というコーヒーはほとんどなかった(少しはあった)。

カップ・オブ・エクセレンスの上位ロットは、普通のスペシャルティコーヒーと比較すれば、明らかに良いコーヒーだと評価できるが、それ以上の印象はない。ベスト・オブ・パナマの上位ロットは、ベスト・オブ・パナマ以外で探しても見つからないくらい別格であるという評価を私はしている。

ベスト・オブ・パナマのエスメラルダ農園 ゲイシャについて書いたことを、音楽家の中川 統雄に見つけて頂いた。当時サイトの訪問者はほとんどいなかったのだが、中川 統雄は一番最初に反応を頂いた方である。彼は現代音楽の作曲家で、ワインや美食、オパール等に造詣が深い。彼をはじめとして、稀に思わぬところから反応があったり、つながりが生まれることは、コーヒーのサイトを始めて良かったことの一つである。

旦部 幸博と鳥目散 帰山人

その後、カフェ・ランバンで販売されていたニューカレドニアのエリーゼブル(ブルボン・ポワントゥ)とUCCで販売されていたレユニオンのブルボン・ポワントゥを飲み比べし、それをきっかけにニューカレドニアのコーヒーについて調べてみようと思い立った。これが旦部 幸博から反応があり、彼の友人の鳥目散 帰山人ともやりとりするようになった。彼らはコーヒー研究で、はるかに先を行く人たちではあるが、彼らから学ぶと同時に、彼らの紹介者の役割を務めるよう意識した。

旦部 幸博は、コーヒー研究でも知られているが、本業は科学者である。私にとって科学者は異世界の住人みたいな人だったが(もともと数学と化学が得意科目だったのだが)、彼の言説を追うことで、科学者がどのように思考するのかを知ることができた。

ニューカレドニアのコーヒーについては、途中まで書いて、その後1年半近く放置していたが、去年(2021年)の夏に某S教授から「続きはまだですか?」とメールを頂き、それをきっかけに再開して、2021年中に完成した。


珈琲マルシェ

話は変わって、地元で年1回「珈琲マルシェ」というイベントを開催している。これは日本のスペシャルティコーヒー業界の最先端を消費者目線で体感できるイベントで、2018年にそういうイベントがあるらしいとチラッと聞いた記憶があるが、結局行かなかった。2019年には、珈琲マルシェにサザコーヒーが出店していると知り、サザコーヒーのゲイシャを飲んでいたこともあって初参加した。

2019年の初参加以降、サザコーヒーの出店ブースで、本間 啓介バリスタと話す機会が多く持つことができた。本間 啓介バリスタとは、色々な話をして言えないことも多いのだが、彼曰く、バリスタの世界大会で、農園のストーリーのプレゼンで勝てたのは井崎 英典バリスタくらいまでで、その後は味で勝負しないと勝てない世界になったらしい。


珈琲マルシェは、丸美珈琲店の後藤 栄二郎が仕掛け人で、今では全国の百貨店に注目されるようなイベントになってるらしい。後藤 栄二郎は、職人というよりも経営者の発想の人で、彼のチャンピオンシップの経歴もコーヒーを極めるためというよりも経営的に有利だからという発想があるのだと思う。

コーヒーの終わり

芸術はある時代の始まりに偉大なものが生まれることが多く、文学はある時代の終わりに偉大なものが生まれることが多い。騎士道文学は終わっても、『ドン・キホーテ』は生き残るのである。

近代の始まりと嗜好品の広がりは連動している。近代が終わるとき、嗜好品の時代も終わると私は考えている。しかし、嗜好品の時代の終わりに書かれた大作は、長く生き残るだろう。

このコーヒーの探求は、最終的には、コーヒーに関する大きな歴史を書くか、コーヒーに関する小説を書くかで決着をつけることになるだろう。おそらく長大なものになるだろうが……。

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