『モマの火星探検記』

あくまで原作未読、作品を一度観劇しただけの私の勝手な感想文です。作品を思い出しながら記していきますが、記憶と物語に齟齬があったら申し訳ありません。(情報は観劇時の記憶とパンフレットのみ。キャラクターカードは手元にありません)



モマとユーリの物語


父との約束を果たすために宇宙に旅立ったモマと、父に向けてロケットの打ち上げを夢見るユーリ。それぞれの観点から展開される2つの物語が主軸になっている。

【モマの物語】
宇宙飛行士のモマは、父との約束を果たすために人類初の火星探検に仲間たちとともに挑む。

「人間はどこからきたのか、なんのために生きているのか」

父と約束した問いの答えを、火星に向かう宇宙旅行の中でモマはずっと考え続けている。仲間たちと笑い合い、ときには地球を憂い、答えを探していく。
そんなあるとき、モマの目の前に「幽霊」が現れる。仲間であるホルストの息子ジュピターが、川で溺れ死んだ。その訃報を受けてからホルストが息子の幻聴を見るのだと仲間たちは噂をする。しかしそれは幻聴などではなく、ジュピターの「幽霊」だったのだ。
驚きながらもそれを受け入れ、モマは少しずつ人間が生きる意味を考えていく。

【ユーリの物語】
北の国に住む少女、ユーリは父親に会ったことがない。母親は父を新聞記者であると語るが、ひょんなことから父親の本当の職業が宇宙飛行士であったことを知る。彼女が生まれる前に人類初の火星探検に旅立ち、火星で事故に巻き込まれて帰らぬ人になったという。
ユーリは行方不明になった父親にメッセージを送ろうと、仲間たちと共に小型ロケットの製作に取り掛かる。ロケットの核となるエンジン部の開発で失敗を繰り返し四苦八苦するユーリのもとに、1人の「幽霊」が現れる。
「幽霊」はユーリに問いかける。

「宇宙の境界線はどこにあると思う?」

その姿に父の面影を見たユーリは、「幽霊」と対話を繰り返しながらも小型ロケットを完成させる。

過去と現在、未来と現在を行き来する様式で物語は進む。モマサイド、ユーリサイドが交互に繰り返され、最終的に1つの物語へと形を成す。
ユーリのロケットは完成し、打ち上げも成功する。ユーリの前に現れた「幽霊」はモマの父親の「幽霊」であった。「幽霊」はユーリのロケット打ち上げを見届けることなく、成仏してしまう。

一方火星に1人取り残されたモマは地球を眺めながらも、忍び寄る死を待ち受けていた。そこに突然自らの父親の「幽霊」が現れる。モマは「幽霊」の父親に対して自分が見つけた問いの答えを提示する。そこにユーリからのメッセージが届き、過去と未来が交差して2人は出会うこととなった。
 

「父親」の存在

 

登場する主要人物の中には、「父親」が複数人存在する。宇宙飛行士のモマ、同じく宇宙飛行士のホルスト、モマの父親(「幽霊」のおじさん)、話題として上がるだけだがユーリ母の父親、そのほかにも明かされていないだけで父親である登場人物もいたかもしれない。常に父親という存在は物語の根幹にある。
「父親」がこれだけ描かれる中、明確な「母親」という存在はたった1人、ユーリの母親しか登場しない。登場人物の中で母親となりうる存在である地上指揮官のアイザックが家族云々の話をするものの、それは我が子云々の話ではない。アイザックに子供がいるかどうかは定かではない。また、同じく母親となりうる存在といえる宇宙飛行士のヴェラは家族の話すら語らないのだ。

作中で何度もその名を繰り返されるモマやホルストと違い、ユーリの母親の名前は劇中に登場しない。その姿も、物語中盤まで舞台上に登場しないほどだ。(千穐楽後、少年社中公式Twitterより母親の名前が「イリーナ」であることが明かされた)
この話において「母親」とは「父親」と比べさほど重要視されるものではないことが分かる。だが、物語のキーワードである「繋がり」を生むのは「母親」という存在である。
 

ユーリ母の物語


彼女の父親は宇宙に関する仕事をしており、幼少期は父親と「家族」という関わりが希薄であった。彼女はもっと父親と過ごしたいと思っていたものの、父親は家庭を省みることなく仕事に没頭している。そしてロケット開発中の不慮の事故によって亡くなってしまった。彼女は父親が死んだのは宇宙なんかのことを考えていたからだ、と語る。宇宙が悪かったと。

その後モマと出会い恋人となるが、モマも宇宙に行く夢ばかりを追いかけ、火星に旅立つこととなる。旅立ちの前にモマとの子供を授かっていることが発覚し、モマからプロポーズを受けるものの「宇宙に行く」と語り家庭を顧みないモマに憤りそれを断ってしまう。その後ユーリが生まれ、火星のモマから再びプロポーズを受けるものの、やはり同じ理由でそれも断る。
そしてモマは火星で事故に巻き込まれ、そのまま帰らぬ人となった。そして彼女はここでもモマが死んだのは「宇宙のせい」だと語るのだ。

彼女は娘を育てる中で、ユーリの父親は新聞記者であると本人に嘘をついた。ユーリはモマに似て好奇心が旺盛で、いつ「宇宙に行きたい」などと語るか気が気ではなかったのであろう。
しかしある日、ユーリは秘密基地にしていた父親の生家にて宇宙に関する本を大量に発見する。本を読んで瞬く間に宇宙に魅了されたユーリは、仲間たちと一緒にロケットを作る夢を持つ。実父やモマのように宇宙を夢見る娘の姿に、彼女はそのロケット作りを邪魔するようになる。
仲間と会えなくしたり、ユーリの秘密基地であるモマの生家を取り壊したり、ロケット作りが行えない環境を作った。だが、それでもユーリはロケット作りを諦めなかった。ユーリの強い思いに押され、完成したロケットを打ち上げる現場に彼女は笑顔で立ち会うこととなる。
 

ユーリ母と「繋がり」

 

「家族」に対してコンプレックスを抱える彼女は、「家族」とはこうあるべきだという理想を抱いている。友人らの父親を見てそう考えるようになったのかもしれないし、単純に寂しいという気持ちが先行したのかもしれない。
彼女の人生はモマやユーリとは異なり、彼女の口から語られる主観のみでしか知る由がない。観客が彼女の人生を見ることはないのだ。この作品はモマとユーリの物語である。2人の「繋がり」がテーマとなっている中で、彼女は2人を繋ぐための手段と方法の1つに過ぎないのだ。
これが彼女が作品において主軸を担わず、重要視されない所以の1つであろう。「繋がり」を作る上では必要な存在であるが、結果的には彼女が画面外の存在でも不自由はない。しかし彼女を視覚化することによって、より「繋がり」は強固で自然の摂理であるかのように思われる。

その繋ぎの役割を担う彼女は、ユーリの夢を応援しない。ユーリの夢が、彼女の描く理想の「家族」象とは真逆のものだからだ。彼女の理想と宇宙は、完全に切り離された対極にある。
彼女はなぜモマのプロポーズを受けなかったのか。いつ何時、どのような事故に見舞われるかも分からない、安全とは言い難い宇宙という空間。そんな危険な場所に向かうモマに対して放たれる「なにも分かっていない」という言葉。それは残される側の気持ちを慮ってほしいという叫びでもあった。
そしてこれは、彼女を優先せず、自分の夢だけを目指して生きるモマを否定することによって、自らの理想を肯定することに直結した。

彼女はモマを否定することによって、同じ行動をとった自らの父親をも否定した。そしてどちらも突っぱねた挙句、どちらも失ってしまったのだ。
これはつまり、彼女が突き放した時点で「繋がり」が絶たれたということになる。物語に蔓延する「繋がり」とは生命であり、絆であり、人間の存在理由である。それは火星に取り残されたモマが「幽霊」の父親に対して、長年の問いの答えを語ったことで明らかになっている。
彼女が手を離してしまったことによって「繋がり」が絶たれ、離された側の生命が失われてしまった。そう仮定をすると、このままユーリの夢を否定し続ければいずれユーリも「繋がり」を失いモマの後を追うこととなっていたかもしれない。
彼女はユーリを失いたくはなかった。それは母親としては当然の感情であるが、彼女の人生において「自分を愛して側にいてくれる」はずの存在を失いたくなかったからとも考えられる。
全てのきっかけは宇宙である。宇宙は彼女にとって「与えるもの」ではなく「奪うもの」なのだ。

そんな彼女が、何故ユーリの夢が叶う瞬間に笑顔で立ち会うのか。それは彼女とユーリの「繋がり」が強固なものとなり、そうなったからこそ彼女とモマの「繋がり」が再び生まれたことによる。


おじさんの役割


自分の夢に対して猛烈な反感を抱く母親に対し、ユーリも「繋がり」を手放しそうになっていた。そこを「幽霊」のおじさんと交流することによってなんとか踏みとどまることができたのだ。
モマが火星に取り残される何年も前に、その父親であるおじさんは死んでいる。そんな人物が現世に心残りがあると「幽霊」になり自らの孫にあたるユーリの前に姿を表す。そしてユーリと母親の「繋がり」を修復し、火星のモマへと繋げる行動をとっているのだ。
おじさんについても多くは語られてはいない。むしろその人生についてはユーリの母親よりも情報が少ない。その心残りが具体的になんだったのかすらも語られていないため、観客側の想像に寄る。
しかしその行動を鑑みるに、おじさんの意思の根底には「家族」やここまで述べてきた「繋がり」が存在していることは明白である。ユーリが自分の孫であると知りつつも自分の存在が何であるのかは明かさない。しかしユーリと母親の関係については口を出したがる。ここに何かしらの蟠りがあったのであろうと推察される。

ユーリは母親を嫌いになりかけていた。きちんと向き合って話し合うことすら放棄し、理解してほしいと語るばかりで母親を理解しようとはしなかった。まさに前述したユーリの母親とモマの関係性に近い。おじさんはユーリと向き合って話した。そしてユーリは母親と向き合うことを決め、「繋がり」は失われずに済んだのだ。
ユーリと母親の「繋がり」が修復されたことにより、物語はようやくロケット打ち上げへと続く。このロケット打ち上げという行為が、モマとユーリ、ひいてはモマとユーリの母親を繋ぐ行為になる。
 

ユーリ母の役割


この作品において重要視されるのは「父親」であるとは前述した。おじさんの持つ役割の重要性によりそれも明確である。
単純に血の「繋がり」や生命の「繋がり」だけではない。そこには人間同士の絆も含まれる。
物語の冒頭、いや終盤までずっと、父母と子という彼女が理想とする「家族」の形は常に破綻している。父親を亡くした彼女、息子のジュピターを亡くしたホルスト、父親のモマを亡くしたユーリ、どれも「家族」という形のどこかが欠けている。父親であったり子であったり。それは「繋がり」の欠如とも言えるだろう。そこを補うのが「幽霊」の存在だ。おじさんの「幽霊」もジュピターの「幽霊」も「繋がり」維持装置として現れた。そして「幽霊」のおかげで「家族」の「繋がり」は失われることなく存続することとなる。

では彼女の存在とはなんだったのか。物語中で明確に提示されないそれは、可視化された地球という存在だったのではないか。
全ての生みの親、生命の母親、度々地球はそう喩えられる。それを可視化し、全ての絆と「家族」をまとめる「繋がり」役割を付与された存在が彼女であったのではないだろうか。宇宙を夢見るモマとユーリ、その絆を繋いだのは可視化された地球である彼女だった。

宇宙は彼女にとって「与えるもの」ではない。それは彼女が「与える側」だからだ。彼女/地球が生命の母である限り、宇宙は彼女から「家族」を奪う存在であり続ける。
彼女の持つ役割が地球の可視化であったとするならば、ユーリのロケット打ち上げシーンに立ち会う彼女/地球はその行為を経てやっと宇宙の一部となる。もはやロケット打ち上げを見守ることが儀式とも言えるだろう。それが終始物語に蔓延する「繋がり」の正体なのではないか。
おじさんがユーリに投げかける「宇宙と地球の境界線はどこにある」という問いは、物語の終盤にユーリ自身によって解き明かされる。その答えがそのまま彼女/地球の存在理由となる。宇宙にいるモマ、地球にいるユーリ、それを繋ぐのは宇宙と1つになった彼女/地球なのだ。
そしてここでやっと彼女の理想とする「家族」象は具現化される。それに必要だったのは宇宙を自分の一部として認めることだった。

「地球は自分の姿を見たくて人間を作った」

これはモマが導き出した「人間はどこからきたのか、なんのために生きていくのか」という問いの答えである。地球は、自分の姿を写した彼女が宇宙を認めることによって「家族」を繋ぐ役割を実現する。実現された「家族」たちは「繋がり」をより強固なものとし、物語は未来へと続いていくのだ。
 

『モマの火星探検記』


火星にいる過去のモマ、地球にいる現在のユーリ、そこから広がっていく無数の未来。夢や希望や美しい世界を描きながらも、地球を讃えるような物語である。
地球という星が生まれた瞬間、地球は全ての生命の母となった。この星で生まれた全ては繋がっている。
モマの宇宙旅行中に起きた世界の悲劇たちは全て、ユーリのいる未来をも脅かそうとしているのだろう。多国籍な宇宙飛行士たちが先の見えない宇宙という空間で互いを支え合い、鼓舞し、手を取り合って進んでいく様を忘れてはいけない。言外にそう語りかけられるような物語である。 原作者の毛利衛は、自らが宇宙に旅立った記憶を元として、そのような意図を持って物語を綴ったのかもしれない。
これからも私たちの物語は、親子、地球、宇宙と絆を糧にどこまでも繋がっていくのだろう。

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