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10 自由に生きる―タイ仏教僧として―

 先ほど、自由になるにしたがって「世界から受ける影響力がだんだん減ってくる」という旨のことを述べましたが、 それは、私たちの発する言葉にも如実に表れてきます。

 まず、「何々のせいで、こうなっちゃった」というのは、まだ世界の下僕の段階に留まっている人の言い回しです。 「凡夫話法」と言ってもいいかもしれません。

 次に、「何々だけど、こうなれた」と語る人は、世界からの影響にただ翻弄されたり、溺れたりする段階を脱し、 真の意味で自立をし始め、心の自由度を増してきています。いわゆる、「健全な自我の確立」という段階が、この段階に当たるかと思います。

 そして三番目、さらにそれ以上の自由があります。すなわち、「何々だからこそ、おかげさまでこうなれた」という、そういった見方、言い回しですね。すべて生じてくる現象、出来事をすべて心の栄養にしてしまうことができる。 あるいは起こってきたことをすべて、自分の生きる原動力や糧にすることができる。いうなれば、あらゆる現象を生かしていくことができるというのがこの段階です。ここにきて私たちは、世界の奴隷状態にはなく、世界の主人になれたと言えるのではないでしょうか。こうした人こそ、真に「自由に生きる」人と言っていいのではないかと思いま す。

 このあたりのことをもっとわかりやすくするために、私たちの現実の場面に当てはめてみましょう。例えば、「あの失敗」や「あの親」という言葉を「何々」のところに代入してみます。そうすると、最初の「凡夫の段階」だと、 「あの親だから、こうなったんだ」「あの失敗のせいで、私がこうなってしまったんだ」となります。過去の事実や親 が大きな影響を及ぼしていて、こうした人は全くの無力状態で、完全に他者や過去の奴隷になっています。

 ところが、次の段階、「あの親だけど、こうなれた」「あの失敗があったけど、こうなれた」になったらどうでしょ う。こうした言い回しができるようになった時には、過去の事実や親の影響力を跳ね返して、自立した自己を生きる ことができるようになってきています。ここにおいて「自由が生まれてきた」と言っていいでしょう。

 そして、「あの親だったからこそ、こうなれた」「あの失敗があったからこそ、お陰さまでこうした自分になれた」 と言えたとき、過去の事実や環境、今ここで生じてくる出来事、そういったあらゆる「ご縁」を、自分を拘束する条 件にしてしまうのではなく、自分の苦しみの種にしてしまうことなく、自分自身の生きる糧やエネルギーに転換し、
生かしていける。それこそが「自由に生きる」ということの本質ではないかと私は思います。

 もうお時間ですので、最後に、私の好きな法華経の一節をご紹介させていただき、本日の講演のまとめとさせてい ただきます。

 私の大好きな法華経の一節とは、如来寿量品の「我此土安穏 天人常充満」というフレーズです。この私の心が安らかで穏やかであれば、世界は天人が常に充満しているように見えてくる、そういったメッセージとして、私は受け取っています。すなわち、私たちの心ひとつで世界は地獄から天国まで、いくらでも変えていくことができてしまう。 世界は私たちに何らの影響力も与えず、ただこの私の心が世界を変えていくことができる。これこそ本当の意味での 「自由」の境地ではないかと思いますし、また、釈尊は、そうした可能性を誰もが持っているということを説かれて いたのではないかと思います。そういえば、優れた経営者の方で、「全てはわが師」みたいな言葉を使っている方もいらっしゃったと記憶しています。そうした経営者にとっては、どんなダメ社員であっても、いろいろ学ばせてもらえるところがあると見えているのでしょうね。