小説家のいったい何がすごいというんですか?
早速タイトル回収をする。小説家は取材力がすごい。これはnoteを書くようになってから、余計に感じることだ。
もちろんストーリーを展開する構想力もあるし、クリエイティビティーもある。創造力だけでなく想像力も持っていれば、人を引きつける書き方も知っている。でもそれ以上に彼らの取材力に驚く。
たとえば、村上春樹さんの紀行文集「ラオスにいったい何があるというんですか?」で、アメリカのオレゴン州ポートランドを訪れた回の冒頭にはこう書かれている。
オレゴン州ポートランドの歴史は、東の同名都市のそれに比べるとずいぶん若い。1851年には人口はわずか821人に過ぎなかった。町とも呼べないくらいだ。しかしこの街は深い水位を持った、内陸の自然の良港として、林業と漁業を中心に着実に発展を遂げることになる。そしてまた人口稠密なカリフォルニア諸都市に農産物を供給する要としての役を担うようになった。
とはいえポートランドが独自の文化を立ち上げ、展開するようになったのは、比較的近年になってからのことだ。あえて大都市に、、、
ポートランドの街の成り立ち。150年前の人口。そこからどうやって今のように栄えたのか。という情報が並べられている。
情報を集めて、関連づけ、綺麗に並べてから、気の利いた言葉を選んで、文章としてアウトプットする。このプロセスが凡人より多分に優れているから、人を惹きつける文章になるんだろう。
これを仮に1000字書くと考えただけでも骨が折れる作業なのに、それを数ヶ月にわたり数百ページも書き続けてひとつの作品にするなんてありえない。人知を超えているんじゃないだろうかとホンキで思う。
アウトプットを継続する
そーいえば、かつて読んだ村上春樹さんの本に、読者の質問に答えるテイストのものがあった。ある質問に対してこのように答えていた。(記憶は曖昧です、すみません)
「文章が上手くなるには?」
「センスです」
これを読んだ当時はかなりショックだった記憶がある。自分の文章にセンスのかけらも感じたことがないから。
でも今思うのは、センスはもちろん必要かもしれないけど、それよりも彼らの持つ取材力も必要だということだ。
そしてある程度の量をこなす。何事もある程度の量をこなさなければ、センスがあることすら見分けられないからだ。
要するに、文章が上手くなるには、行動して書くための情報を集めて書き続けることだ。
たくさん本を読んで、いろんなとこ行って、新しいことを経験する。んでもって、その場で見たもの聞いたもの、調べたものをとことんアウトプットする。
少なくとも100日ぐらいは書くというカタチでアウトプットを続けたい。いや300日くらいは、、、
それでセンスがないとあらためて気づくかもしれない。もしかしたら何も得られないかもしれない。でもなんとなくではあるが、続けた方がいい。そんな気がする。
いい感じにテンションが上がって決意みたいなことしてますけど、まだ書き始めて1ヵ月も経ってないです。。。
でも、書き続ければどうなるかという話は、興味深いテーマなので、しばらくしてからまた掘り下げればいいなと思うてます。
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