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AIが6億手から将棋の最善手を選べたとしても、その手を打つのが人間ならば?

どの世界にもAI、人工知能の技術が入ってます。将棋の世界にもAI。

人工知能、人工知能。

仕事がAIでなくなるだの、ビッグデータがどうのこうの。

人間が関わるよりもAIの方が、仕事をする上で確率高く予想が当たるパーセンテージが上がったことで便利になった部分もあります。

人間が「こういう時はこうなりやすい」と予想して行動に出る(つまるところ最低限「時間を賭ける」ってこと)より、AIの「こういう時はこうなりやすい」判断の方が確率高く当たることが多い。

しかも、人間の判断より時間がかからない。経費削減。こういう感覚の仕事は無くなっていくのはうなづけます。指摘しやすいですし。

賭け事に時間かけず確率高く当たる訳ですから、長く施行していけば利益は増して行きます(「仕事=賭け事」というと、こめかみピクピクする方もいるでしょうけど、他の人より確率高く予想が当たることが仕事になってる人がほとんどです)。

もっとも、データを集めやすくないもの、データの切り口としてアイデアのないものはAIが仕事を奪っては行かないでしょう。決定に自信が関わるものですね。

AIの後ろには人間がいます(※ホラーな話ではない)

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重要なのはAIの後ろにはたいてい(プログラムなりなんなりを組んだ)人間がいるってことです。もしいなかったらホラーですよ。イチマーイ、ニマーイ、サンマーイの世界(絶対、違うだろ)。

AIは、誰にも厄介にならず人間より判断が上手くなって行くことはない(人工知能として使えるようになるには人間の手が必要という話。だからこそ、映画だったり、小説だったり、漫画だったりにはAIが暴走してと、そんな感じの話が生まれたりする訳です。モチのロン、機械学習はあるんだけど、扱うのは人間ですからね)。

AIには、感情も体力も成長もない。だから、無理難題をふっかけられる。

しんどい負荷のかかる十中八九、人間ならツイッターに愚痴書かれそうなことを押し付けても文句は言いません。AIは。

なものですから、悲しきかな愚痴を聞こうとして、AIと一緒に酒を飲むなんてできない訳です(何をお前は、って話ですけど、感情と体力と成長とAIって大切な話なんです。飲んで飲んで飲まれて飲んでのある人間と、それが全くないAI。♪忘れてしまいたいデェター、なんてないでしょAIに)。

AIに6億手読ませて、最善手が見つかっても?

6月の終わりに藤井聡太七段の打った手に関して、話題となった加藤一二三さんのツイート。

私は将棋に詳しくはないのですが、一二三さんの意見に同感です。歯がゆすぎます。

AIを過大評価してしまうのは「誰でも操作可能」と思わせるところから来るものでしょう。そのソフトさえ手に入れば、天才と呼ばれる棋士が思いつく最善手を「私も打てる」と。

それは果てしなく勘違いもいいところの話。幻想です(キッパリ)。

いや、語弊がありますね。最善手は打てます。

ただ、それだけです。

最初に書いた通り、AIには感情も体力も成長もありません。酒も飲まないし、タバコも吸わない。男も女もない。自分はショートカットの女性がすんごい好みですが、そういうのもAIにはない(どうでもいい)。

それを扱う側にゴリゴリにあるわけです(黒木華さんがショートにされてて素晴らしすぎてしばらく寝込んだ)。

AIが6億手読んで、藤井七段と同じ最善手が見つかったとしましょう。そのままAIが打つのであれば別ですが、最善手を「人間が打つ場合」、そこには賭けに出ていいかという「自信」が必要になります

感情よ、こんにちは。というわけです。いやいや、ダメよ、さようならという別離はできない。

ありとあらゆる行動には、大なり小なり「自信」がついてくるものだからです。

AIに感情も体力も成長もない。自信の一手もない

AIに感情はありませんし体力も成長もありませんから、自信という感覚もない。だからちゅうちょなく最善手として候補の筆頭にあれば打てます。しかし、AIを使って人間が打つとしたら「戸惑い」「緊張」「自信」「焦り」みたいな感情と相対することになります。

AIに関わってる人でこの「感情」「体力」「成長」という、人間にゴリゴリにあるものとどう折り合いをつけるかについて考えてない人が多い印象がある。

暴論かもしれませんが、最強の将棋AIというのは、藤井七段が関わりまくったものでしょう。

つまるところ、将棋にムッチャクチャ詳しい、名人級な人が作るってことです。でもそういうことにはならないでしょう。自分の頭で感情も体力も成長もあるところで一局指す方が楽しいからです。

イライラしたらスピッツを聴いてストレス解消することもあるでしょうし、疲れたら寝るでしょうし、キュボロで遊ぶこともあるでしょうし、成長できたことにはにかむこともあるでしょう。負けず嫌いな面が顔を出したり。

そういう、感情に関わることがたくさん将棋にあるから長い間多くの人が関わって見てきてるのでしょう。

様々な感情の中で腑に落ちたり、納得したり、反論したくなったり。笑いたくなったり、悲しくなることもある。

将棋や囲碁、チェスが「AI vs AI」でしか行われてないのであれば、大手の新聞に掲載する欄が設けられたりすることはないはず。

将棋などのテレビゲーム、デモ画面で機械がある種AIのように動いてるのを面白く感じるのは、それを見てる人間の側に感情が生まれたからに他なりません。

「棋士 対 AI」を将棋と見ていいのか問題

小学校の高学年、オセロ・将棋クラブの一員だった頃には全くそんなことは考えませんでしたが、それからドタドタバタバタと肥えて40歳も過ぎますと、妙な疑問を思いつく(どういう人生歩んでるんだよ!)。

「感情」「体力」「成長」という感覚がゴリゴリにある人間である棋士 
VS 
「感情」「体力」「成長」が全くない将棋AI

の対局を「将棋」と呼んでいいのか問題。

ちょっと何言ってるかわかんない。いやいや、そんなことはない。

これは将棋だけでなく、囲碁でもチェスでも同様なのですが、同じ土俵に立った対局とは考えていいのか? 将棋のくくりに入れていいのか?

AIは感情も体力もないわけです。それらが無限ではない有限ですり減らしていく人間と相対したら、いつか人間の方が負けるのは見えてる。「棋士 対 AI」という対局はそういう戦いなわけです(暴力的なことを言えば、人間の側はAIに水ぶっかけて故障させる手は持ってるけれど……)。

単純に、いつも「変だなぁ。変だなぁ。<阿藤快さんの顔になり>なんだなぁ」と思って見てます。

そう感じるのは毎日のように競馬を見てるせいでしょう。

公正に競馬を行うにはいびつすぎる部分があっては誰も見てくれなくなります。騎手の斤量はきちんと計測され、レース中は四方八方からカメラが追って録画されます。その映像はレース後、すぐに様々な人が見られるようになってる。

批評の目にさらされる。

ハンデをつけるにしてもきちんと決まりがある(たまに、ハンデ戦でハンデキャッパーのジャッジに「?」となることはあるけど。クリノガウディー58キロ・CBC賞)。

「棋士 対 AI」は、そのような、ゲームを行う、レースを行う上で整えられてる部分があって対局されてるようには見えないんですね。AIにしても、棋士にしても対局を壊すことができる武器を持ってる一局になってる。

土俵が整ってない戦いを土俵が整ってる戦いと勘違いしてる?

商売の邪魔をする気はサラサラもありませんが、AIに「感情」「体力」「成長」がないことで、ある種の万能感がこさえられてるのを「感情」「体力」「成長」のある人間も「万能感を無茶苦茶使える」と勘違いしてるところにエライ間違いがあるんじゃないか? 

万能感をより万能感に持ち上げるのはその人その人の自信が関わります。自信となってくれるものがなければ不安に抱かれます。その自信はその人が日頃どうしてるかである程度決まります。

お互いにAIの最善手を棋士が判断して打つ一局があったら面白いかなとは思うんですが……(もうあるのかもしれないけど)。

(余談ですが、棋士の方が勉強するのにAIを使うのはいい事だと思います。今回の話はそこの話ではありません)。

以上、AIが6億手から将棋の最善手を選べたとしても、その手を打つのが人間ならば? という話でした。

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