違和感

誰も読まない、筆者を特定する手段もない。主たる目的は、その時感じた自分の感性を振り替えるためのツール。そんな目的で使うNOTEというブログは、その時の自分が社会的な立場上、周囲に言いづらいことを書き記すという側面も持ち合わせる。年齢を重ねて、何かの属性に組み込まれている自分は、とてつもなく不自由な存在だ。

そんな不自由な自分が、違和感を感じて誰かに話したいけれど、SNSで身分を明かして、わざわざ発言するまでもないような事柄が時々ある。先日見かけたこちらの記事についても、自分としては実名SNSでは触れにくい内容だ。

木下斉氏は、その忖度しない物言いで、個人的にはとても好きだ。
氏の書く記事は、そこそこ読んできたし、実体験に基づく考察も多分に含まれているのだろうと思う。

日本の旧来とした体制の残滓が複雑に組み合わさって自浄能力のない社会を作り出し、結果として若い人たちの未来を奪っているという論説は、氏に限らず広く敷衍したものである。
私も同じように感じている一人であり、構造的に日本社会が行き詰っている事、そして現状では改善のしようがないことを諦めている一人でもある。

今回の記事も、そういった文脈をふまえて書かれた記事である。
ところが…同じような分析をする自分から見ても、今回の記事には違和感を感じている。

まず第一に、住居店舗一体型で形成された商店街が、既に店舗兼住戸の償却を終え、コストがかからない状況のために商店としての魅力創出を行わず、結果として商店街自体の役割を終えているにも関わらず、結果としてシャッター街を生み出しているという論説。
この分析自体はその通りだと思う一方、そこで居住する人(基本的には老人であろう)を、既得権者として非難するという部分に強い違和感を感じる。
そもそも、若かろうが老齢だろうが、店舗などの事業の初期コストを収益で賄って、コスト逓減状況の中で収益を生み出していくことは、至極真っ当な事業活動である。今批判されているこれらの人たちは、単に景気が良かった時代に一生懸命働いて物件コストを支払い切り、年金などが受給できる年齢になったことで、採算性の悪い商売でも生活ができる状況になっているという事であって、まるで悪辣な既得権者のように論じられることには違和感がある。
あわせて、その土地を所有して、家を建てて住んでいるのであればなおさら、”そこ”に住む事を非難されるのはお門違いだ。
この論調に賛同する人は、数十年後に自分が同じ状況(土地建物を買って、頑張って仕事して借金を返して、食べるだけならなんとかなる…という状況になった時に、お前のようなイノベーションを起こさない人間がここにいるから町が停滞すると言われるような状況)になったらどう思うのだろうか?
住み慣れた我が家を捨てて、姥捨て山にでも行くというのだろうか?

商店街が衰退していくロジックは正しい一方、そこに住む人の居住権や、これまでやってきた事への思いも、もちろん保証されるべきである。商業エリアだから、後進に席を譲るべき…という考えには賛同できない。
これが、第一の違和感である。

次に、その商売内容への言及の違和感である。
激安大盛店などに代表されるような、住居店舗一体で借金を支払い終わった店主(しかも年金で生活が保障されている)が、チートな状態で採算度外視の商売をしているという事への言及である。
これについては、実は飲食業に限らず同様の事例は他の業界でもよく見かける。
例えば農業。年金生活者が相続した土地で小規模な農園を営んで野菜を作り、道の駅などに持ち込んで採算度外視で売るようなスタイルである。これらも、いわゆる農業専業の事業者からは、太刀打ちできない価格であるとクレームが入る。

これも、心情的に理解はできる。誰しも、自分の事業についてはコンペティターは少なく、利益率は高くあってほしいものだ。
でも…私たちは自分の事業ドメイン以外では、安く高品質なことを喜んでいるんじゃないだろうか?
道の駅の安い野菜も、大盛激安の店も、多くの人は喜んで行くんじゃないのだろうか?
(それがデフレの原因だと言われても、安くそこそこの品質のものが喜ばれるのは人間の心理的にはしごく真っ当な感覚だと思う)
私たち経営者は、そういった状況を俯瞰しながら、競合しない新しいサービスを作ったり、時にはそれらを活用したりしながら、事業をアップデートしてきたはずである。

ブルーオーシャンだと思って飛び込んだ世界が、いくばくも時間がたたないうちにレッドオーシャンになることなど、私たちは何度となく経験をしている。
それでも戦うため、状況を分析し、サービスを差別化し、コストを低減し、可能であれば参入障壁を作り、収益性が高く継続性の高い事業を作ってきた。

顧客はやっぱり、価格と品質のバランスをシビアに見る。
もちろん、その視点の国や地域による差はあるけど、私たちはどの層をターゲットにするかという選択の自由もあるはずで、そういった中でより事業継続性の高い状況を追求していく事こそが、経営なんじゃないかと思うのである。
そういう観点で見ると、大盛激安や道の駅の安い野菜という状況は、経営的外部要因の一つに過ぎない。
もし飲食や農業を事業ドメインにしているのであれば、これらを生み出す外部要因を踏まえて、どのように運営していくのかを考えるのが取るべき経営手段なんじゃないかなと思う。
激安大盛のお店や道の駅に安い野菜を出店する人たちは、自社の経営資源を活用して、自分のやりたいことを実現しているにすぎない。
ここだけ抜き出して批判する事。
これが第二の違和感である。

以上、とはいえ私も年齢を重ねて、批判される立場に近づいて行ったことが、こういった違和感の源泉であるようにも感じる。
そういう意味でも、また時間をおいてこの記事を読むと、新しい視座に気づけるかもしれない。


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