動機を簡略化する

こんにちは。高良です。

モチベーションはいらない。モチベーションとは株価のようなもので上がったり下がったりするものであるということを有名な人がいっていました。

僕はこれを少し違ったものとして解釈しています。

モチベーションとは動機付けであり、「なぜやるのか」という人の行動の根源のようなものです。深く掘り下げていけば誰にだって動機は存在するはずです。

つまり、モチベーションは捨てていると言っている人たちは、モチベーションを捨てているのではなく、そのモチベーションが外的要因に上下されない位まで明確かつ自分の中の核心に迫るものとなっているのではないだろうかと言えます。

モチベーションは捨てるのではなく、その動機がどんな状況下においてもブレないものになるまで内省し、シンプルなものとなるまで落とし込むことが重要だということです。


例えば、サッカー選手になりたいという目標を持っている選手がいた場合、同じ目標であったとしても、その動機が自分自身を十分に理解したうえで設定されているかどうかによってはその意欲の上下の仕方が全く違ったものになると言えます。

なんとなくなりたいとその根底にある動機がはっきりと理解できていなければ、不定期に訪れる外的要因による意欲の上昇を待たなくては頑張れないということになってしまいます。

モチベーションを捨てろというのはおそらくそういった類の一過性のものに左右されるのをやめろということではないでしょうか。

反対に、自分にとって目標は何たるかを理解し、その目標の根源を十分に知ることができている場合にはその上下の幅が物凄く少ないという風に感じています。

同じサッカー部の中でも、なんでこんなに常にがんばれるんだという選手はその根源が物凄く自分の中で明確になっていたりします。

ただ、その動機もすごいかと問われれば、それ自体は特別なものではなく
「すきだから」とか「負けたくないから」、「勝ちたいから」といったようにシンプルなものが多いです。

そのくらい簡略化されていたほうが立ち返りやすいというのと、最も心の声に近いのはそういった動機なのかもしれません。


以上が僕がここ最近考えるようになったモチベーションに対する持論です。

モチベーションすなわち動機付けというのは、誰にでも存在します。その解像度が高ければ高いほど外的なものに上下されることなく常に熱量を体現し続けられるのではないでしょうか。

ここ数週間色々と悩むことはありましたが、僕がサッカーを続けられるのは「好きだから」であり、本気でなくてはいけないのはそれが僕にとっての「楽しい」に当たるからです。

苦しい時はそうした原点に立ち返り、常に頑張れる人間で在りたいと思います。

最後まで読んでいただきありがとうございます。


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