生命の重さは同じか
こんにちは。佐藤です。初投稿なのでお手柔らかにお願いします。
今回は、生命に関する記事を書くことにしました。学生時代に書いたレポートをもとに作成したものです。少しでも皆様の参考になれば幸いです。
1. はじめに
皆さんは、生きるに値しない命(Life unworthy of life)という言葉を聞いたことがありますか。これは、
劣等的な資質に持ち主とされた人々を安楽死させるというナチス・ドイツの人種衛生学的な政策におけるフレーズである。(Wikipediaより)
この言葉は、大学の倫理学の授業で初めて耳にしました。幼い頃に教えてもらった「命は皆平等であり、尊ばなければならない」という言葉を思い出し、矛盾を感じました。
年齢を重ねるにつれて、個人の能力や努力の程度に応じて人間を格付けすることを実感してきました。つい最近まで、それは先天的なことではなく後天的なものに依存する成果主義によるものだと私は考えてきました。
しかし、優生学の話を聞き、生まれる前から本人の努力ではどうしようもないほどの障害を抱えていたり、親の病気が遺伝して重大な感染症を抱えたまま生まれてきたりする人がいることがわかりました。また、血統的に優良な遺伝子を受け継いでおらず、政策的な排除の対象になった人もいたとわかりました。
私はここで、世の中が個人の努力次第でどうにかなる成果主義ではないと気づきました。生まれる前から将来が決定付けられたかのような生命も存在します。これは皆等しく同じ大きさの生命を与えられているといえるのか私は疑問に思いました。
ここでは、あらゆる方向から生命の重さについてアプローチし、私見を述べていきます。
2. 生きる権利と生きさせない権利
生きる権利とは個人的なものであり、生きさせない権利とは政策的なものであると私は考えます。今日の日本では、生存権が制定されていることにより、生きる権利が当然であるかのように認められています。そのような環境で生まれ育った我々にとっては信じがたいかもしれませんが、かつてのドイツでは生きさせない権利が幅を利かせていた時代があります。
ナチス・ドイツの優生思想では、障害のある人や難病の患者が「安楽死計画」の犠牲になりました。その中で、1939年から1941年8月までに、約7万人の障害のある人が「生きるに値しない生命」として、抹殺されました1)。この他にもナチス・ドイツはレーベンスボルン計画など、優れた生命を生産するための政策を数多く行いました。
現代の日本のように個人の生きる権利を尊重することと、かつてのナチス・ドイツのように優れた生命を重要視し、劣等的な生命に対し生きさせない権利を行使することはどちらが正しいのでしょうか。個人レベルの幸せを望むならば前者で、人類全体の進歩を望むのならば後者だと私は考えます。
二項対立的で、一概にどちらが正解であるかは誰にもわからないですが、そもそも生命を人為的に操作することが道徳的に許されるのかという疑問が私には残りました。
生命が一様に平等であるとすれば、その平等性が人為によって変容させられているということが推測できます。これは我々人間のもっている生命に対する根源的な冒涜なのではないでしょうか。そうだとすれば、生を人為的に死へ導く優生思想はタブーです。
つまり、生きさせない権利は不当であるという結論に至ります。このような背景から現代の生きる権利が奨励される社会が構築されたのかもしれません。逆に生命が初めから平等でないのならば優生思想が正当化されるため、現代のような社会は成立しないと考えられます。したがって、ここでは生命の重さは等しくあるべきで、個人差は生じないと推測されます。
3. 人は生まれながらにして平等であるのか
世界人権宣言の第一条では「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」と述べられています2)。しかし、これは後天的なものであり本質は違うのではないかと私は疑問に思いました。私には、不平等な本質を規律で正しているように見えて仕方がありません。人間が生まれながらに平等であるならば、争いをする必要などなく、皆不自由ない暮らしができるのではないでしょうか。
しかし、現実はそうではありません。争いごとは絶えず、貧富の差も顕著です。そのような人間を平等にしているのは法だと私は考えます。人間は法によって支配されることで初めて平等になるのではないでしょうか。そうであるならば、本来の人間は不平等そのものです。そしてそれは人間の生命の本来的な高低を示していることに他なりません。つまり、ここでは人は生まれながらにして不平等であり、生命の重さに個人差は生じると考えられます。
4. 生命の本来的価値と量的価値
前の二つの段落では結論が真逆になってしまいました。
その矛盾を解くために、ここで視点を変えてみることにします。生命というものを今までは主に人間的な主観的価値観に基づいて考察してきました。ここでは、生命を神聖なものとして、人為の範疇外に定義します。
そもそも生命とは人間が価値観に基づいて操作するようなものではなく、生物学的に生殖行為を通じて子孫を残そうとした結果生じるものです。根源に遡れば、偶然条件が整ったから発生したものであり、人為が介入する余地はありません。むしろ神が与えたものであると考えたほうが自然です。
また、最初は地上の全ての生命が相互依存をしており、共通の祖先をもつという説もあります。そういった人知を超えた領域から生命を俯瞰することにより、生命は本質的に等しいという結論に至ることができます。つまり、本来の生命に個人差が生じる理由などないのです。
ではなぜ生命に個人差を認め、その能力の高低に応じて個人が価値づけられるという現象が起こるのでしょうか。
それは人間という生物が万物を量的価値に基づいた視点で見てしまうからだと私は考えます。
人間は能力によって個人をランク付けすることで社会を構築してしまう。つまり、その人間の生命を見ているわけではなく、その人間がどれだけ有能であるかを見ているのである。そしてその人間の能力がいつしか生命の質や高低と置換されてしまうのです。
私はこれが、本来平等である生命を平等でなくしてしまう仕組みだと推測します。人間のエゴは神聖なものを侵す運命にあるということです。つまり、生命は本質的に個人差などないが、人間の価値観や視点で生命を捉える限り、個人差を知覚してしまうのです。
5. 生命の量的価値化の問題点
生命を量的価値に基づいて知覚するとどのような問題が起こるのかについて考えてみようと思います。
まず前述したように、優生思想が幅を利かせてしまいます。生きていても社会に利益をもたらさないような生命は害悪とみなされ、抹殺されてしまいます。そして優秀な遺伝子をもつ者のみが子孫を残していき、人類全体が能力の優劣のみを基準として万物を捉えるようになります。そして最終的には、人間は遺伝子レベルで優れた人間のみを生かし、残りの生命の殺戮を正当化すると考えられます。
また、物事を損得でしか判断しなくなるので、人間に限らず無駄は徹底的に排除されるはずです。つまり、人生が社会の歯車として有効活用されるだけのものになります。これが果たして住みよい世界だといえるのでしょうか。現代の社会は様々な人間が様々な価値観をもって議論し、保守派も革新派もいることで均衡が保たれていますが、未来まで現状が保持される保証はどこにもありません。
6. 生命の重さに関する問題を解決するには
まず、世間の人々が生命の本質を再認識することが最優先です。そのためには、政府が生命についての倫理観を人々に指導しなければなりません。しかし、現状としてそのようなものは美化された机上のみでの話の一つとしか捉えられていません。
私が特に認識してほしいことは、「生きている」と「生きる」についてです。前者は身体的に生きていることを、後者は積極的に生きることを示します。しかしこれらの2つはどちらも等しく生命をもっていることに変わりはないです。つまり、生命の表面的な違いはあっても本質は同じなのです。
このときに、脳死判定を受けている人はどうなるのかという疑問がありますが、それについては後述したいと思います。また、社会が生命の質を求めるのであれば、人為的に生命の質を上げるということも視野に入れるべきだと私は考えます。このとき、生命に人為が加わったら本質に背くのではないかという疑念が生じるかもしれませんが、あくまで人間の価値観に基づいた範囲内での話であり、本質が同じならば人間社会における質を高めても問題ないはずです。内発的か外発的かに関わらず、人の生命を良い状態にすることは個人にも社会にも有益なのではないでしょうか。
7. 生と死について
生と死は対立する概念であり、その境界線の引き方は様々ですが、生命の話をするとなると避けて通れない概念です。
人間は生まれながらに死ぬことが確定していますが、生まれてから死ぬまでで生命の重さに変化があるのかということが問題として浮上してきます。これは自分と他人の間での個人差ではなく、年齢の違う自分の間での個人差です。生命の重さは生きている間ならば常に一定なのか、死が近づくにつれて下降していくのか、または上昇していくのか、これは疑問が残ります。
これまでのことから、人為を排除した神聖的観点から見れば生命の重さは不変ですが、人間の価値観から見て生命の活力を基礎にすると、活力が上がれば重さが上昇し、活力が落ちれば下降すると考えられます。
これを踏まえた上で脳死判定を受けたが生きている人に関して考えると、やはり神聖的な観点と人間的な観点で真逆の結論が出ます。生命を神聖的に捉えれば生命の重さは一様ですが、人間的な価値観から見ると活力がほぼなく、死に近い状態であるといえます。これに関しても先ほどの考え方と同様に、本質的には神聖的視点が妥当なのですが、現実は人間的な価値観による視点が有力となってしまっているのです。
8. まとめ
人為を排除した状態で神聖な視点から俯瞰すれば、本来皆生命の重さは等しいのですが、人間の損得や本能的な価値観が加わると、主観によって生命の重さに個人差が生じてしまいます。そして残酷なことに人間である我々は人間の価値観から逃れることができません。
しかし、本質的で神聖な視点を取り入れることはできます。この対立した二つの価値観を上手くコントロールしながら生命と向き合うことが、これからの世界には必要だと私は考えます。そしてそれを人類全体で共有し、残酷な世界を少しでも神聖な世界に戻す努力が必要になるでしょう。いや、正確には残酷な世界を踏まえた上での新しい世界をつくっていくべきです。生命の重さが個人にとっても世間にとっても納得できるような知覚をされるようになることを私は強く願います。
9. 参考文献
1) ナチス・ドイツの「優生政策」の実態:
http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hb/a6hb700.html#01(参照 2016-07-05)
2) 世界人権宣言(仮訳文):
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/udhr/1b_001.html(参照 2016-07-05)
清水哲郎 『生命と環境の倫理』 日本放送出版協会,2010
清水哲郎、伊坂青司 『生命と人生の倫理』 日本放送出版協会,2005
ピーター・シンガー 『生命と死の倫理』 昭和堂,1996
生命とは何か:
http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page1.html(参照 2016-07-05)