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ドブの底から星空へ

僕は転職も何度かしましたし、その都合とその他もろもろの理由を合わせて、いろいろな社長のさまざまなスタンスを見てきました。すると、たまに「この社長はビジョナリーだな」という経営者に出会うのです。ところが、なぜかビジョナリーな社長の言っていることが、多くの場合うまくいっていないのです。

これは長らく僕の中で不思議だったのですが、ビジョナリーな人って、ミンツバーグの経営の三要素でいえば「アート」に重きを置いているわけですよね。経営の三要素は「アート」「クラフト」「サイエンス」なわけですから、アートの人がビジョンを打ち立てたあと、周りの人にはそれを理解して動いてもらわなきゃならないわけです。

けれども、アートって三要素の中で一番弱いんですよね。クラフト野郎たちに「今までこうやってきた」「そんなことはうまく行かない」と否定されるし、サイエンス野郎達に「売上が下がりますがいいんですね?」「理論的に正しくない」と詰められるしで。

じゃあアートがいらないのかといえば、長期的に見れば、アート感覚がなく時代の変化に適合できずに陳腐化した会社は滅びます。例外なく。

美的感覚の経営

経営にはアーティスティックなセンスが必要なわけです。ここでいう「美」って、あくまでも芸術から単に拝借してきた用語だと思うので、美しいもの、あるいは美しそうに見えるものくらいの意味なんだと思います。ガチな意味合いでの美を語り出すと、じゃあ醜悪美はどうなるんだと泥沼の議論に陥るので。

さて、どうも日本の大企業の経営者は無趣味な人が多いのか、多くの場合、アート方面は弱そうな印象です。なぜそう思うかというと、三年後の会社のあり姿を描くとなったら、「売上〇〇%アップ!」「コスト削減!」「顧客囲い込み!」「本邦ナンバーワン!」という目標数値ばかりを掲げ、挙げ句の果ては「お客様のベストパートナー」みたいな意味不明の用語で締めくくるありさまだからです。

やはり、どうしてもこれはビション(=アート)の力が足りないとしか思えない。どんな会社になり、社会にどんなインパクトを与えたいのかという絵姿が完全に欠如しているのです。

こうなるのも必然で、冒頭で挙げたように、アートとクラフトとサイエンスではアカウンタビリティに差が出るからです。クラフトは過去の経緯から己を正当化でき、サイエンスは経営管理の理論から己を正当化できる。

けれど、アートには自身を正当化する手段などないのです。それはあたかも、芸術家の描いた絵が「正しいか」「正しくないか」なんて議論できないのと同じことです。

でもね、多くの人を、しかも自分に好意的でない人までを含めて、説得しようとすると「正しさ」が大事になるわけなんです。そうするとアートはしぼんでしまう。アートがしぼむと、長期戦略が描けなくなるのに、です。

アートを仕組み化する?

新しいもの、突拍子もないものは受け入れられない。けれど、無理だ無理だとばかり言っていて、変化に遅れるものは滅びます。とはいえ、会社のような組織は人間の集まりですから、別の考えをもった人には説得して、納得してもらわないといけない。

人に納得させるためには、基本的には理屈が必要です。そこでサイエンスの出番というわけです。……と言い切りたいところなのですが、世の中の人はそこまで論理的でもないので、サイエンスで説得が可能かというと、足りないところもある。それについては「理解力と納得力」の項目で述べています。

さておき、アートで説得はできないから、なにか他の手段をもって説明を行わなければならないわけですが、そこについてはがんばるしかないというのが個人的な感想です。

トップにアート感覚のある人をすえて、その人の権限を強化する。トップ以下には社長の美意識に沿って働いてもらう。仕組みとしてはこれがベストでしょう。でも、まあ、なかなかそうはならんやろ、という印象です。日本の大企業では特に。

社長が絶大な権限をもつなんて、日本ではオーナー社長系の企業でないと難しそうですね。スティーブ・ジョブズのように高いカリスマ性があれば、トップがアートで突っ走ってもひとは付いて来るでしょうけれども。

アートと遵法精神

ところで、本書でも取り上げられているんですが、労働者の欲求には次のようなものがあると言われています。デイビッド・マクレランドの社会性欲求というもので、1976年に提唱されたものです。

1.達成動機 = 設定したゴールを達成したいという動機
2.親和動機 = 人と仲良くしたいという動機
3.権力動機 = 多くの人に影響を与えたい/羨望を受けたいという動機

どの動機にしても、プラスの面もありながら、危なっかしいところもあります。

たとえば、達成動機のある人に適切なゴールを設定すれば、うまく物事をやり遂げてくれるでしょうが、過度に高いゴールを設定すると、違反行為を冒してまで達成したことにしてしまうかもしれません。

親和動機の人も、人と仲良く出来るという長所をもちながら、悪事の横行する場所に放り込まれれば、同僚と「仲良く」するために、やはり悪事に手を染めてしまうかもしれません。

権力動機の人は通常、他のタイプの人よりも難しい仕事に取り組むことを好む側面がありながら、出世するために、仕事を過剰に難しいものであるように見せかける傾向もあります。

どの場合にしても、企業がコンプライアンスを維持するために、障害になることがあります。

そこで、アートが役立つわけです。こうこうこういう企業の目標があるから、違反行為はやめましょう。売上よりも潔白性を優先しましょうと言うことができるわけです。

たとえば、Googleにおける有名な「Don’t be evil」というフィロソフィーがそれに該当するわけですよね。

もともと非情の殺戮集団だった日本の武士が、江戸時代にまったく別物のように丸くなったのも、朱子学の広まりが影響していますよね。アレです。「武士としての美学はこれだ」というものを叩き込むことで、社会秩序をまもったわけです。

語弊のある言い方をすれば、江戸幕府はアートによる統治を行っていたわけです。

アート式経営の行くすえ

ここまで、企業活動におけるアートの重要性と導入の難しさについて述べてきました。

アートの導入の難しさについては、もうどうしようもない。これについてはほんとうに万能の解はないですし、「他社でうまく行ったからうちも」ではうまくいかない。ここまで読んできて、「なんだよそれは、答えをくれよ」という気持ち悪さが残るかもしれません。

うーん、そうですね。あなたが経営者なら、自分のアートセンスを磨くために芸術に挑戦してみるのもいいでしょう。それに、これと思う部下にも芸術教育を施してみるのもいいかも。あなたがいち労働者なら、自分のアートを磨きながら、共鳴できるセンスをもつ経営者の会社へ転職するチャンスを伺うくらいでしょうか。

いずれにせよ、これをやったらバッチリみたいなことが言えないのです。それがアートの無限の可能性の証であり、同時に、頼りなさの証でもあるのだと思います。

ところで、同じ著者は別の本で、企業がビジョンを描けなくなった理由として、次のようなことを述べています。

このような傾向は、つまるところ人文科学的素養の少ない無教養な経営者と、彼らの手足となって数値分析を回し車のハムスターのように行うMBA卒業生や統計リテラシーを持つ理系出身者の相思相愛によって発生したものだと考えられます。(『ニュータイプの時代』)

清々しいほどにボロカスですね。僕は(一応)理系で、しかもMBAホルダーなので、オメーみてえなやつのせいだよと全面的にぶん殴られている格好です(著者は文系で哲学科卒でノンMBAなので、完全に安全地帯です)。

でも、僕は同時に小説書きであり絵描きなので、とあたふたと弁解したいところです。誰だ、大人になったら説教してくれる人がいなくなるゾなんて言ったのは。僕はしょっちゅうお説教されているような……。

まあ、これだけ強い言葉で言い切ってしまうと、人は圧倒されるので、これも語り方のアートなのかもしれませんね。何かを悪者にすえて、その代わり別のものを売り込む、アート・オブ・ストーリーテリング。

……とはいえ、この変化の早い時代に食らいついて行くには、昔ながらのクラフト式でも、サイエンス式でも追いつかなくなってきたのは間違いないです。

クラフト的に、昔気質の親方に学んだことで一生食えるわけもなし、「科学的経営管理手法」がもてはやされた時代だって昔の話です。それらはいまや、あって当たり前のもの。

差を付けるのはアートの部分になるわけです。五年後、十年後の世界を見通して、未来をつくり出す力。絵を描く力。物語を語る力。これがなければ、第一線では戦えない。

ビジョンを描く。それすら、数少ない一握りの人しかできないことです。そのうえで、いろんな反対意見にさらされながら、共鳴する仲間を募って前に進んでいく。もし、成功までたどり着けたら、それは並大抵のことではないはずです。

俺たちはみんなドブの中を這っている。しかし、そこから星空を見上げている奴だっているんだ。(オスカー・ワイルド)

このドブみたいな世界の中で、一緒に星空を見上げてみませんか。星空を目指してみませんか。人は嘲笑うかもしれません。でも、最後に残るのは、星空を見上げている人たちです。僕はそう信じています。

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